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1923/2023(12/5)

鶴見俊輔の時代区分に倣って言えば日本の戦争は1931年の日中戦争から1945年の敗戦まで一つながりだったので、2031年を新しい戦争の始まりとしたら今は1923年(大正12年)に相当する。

1923年(大正12年といえば、尾形亀之助が本郷白山上から新宿上落合に転居し、近くに住んでいた村山知義とヨーロッパの未来派アバンギャルド)美術運動の影響を受けた7月に「MAVO」を結成する。尾形の妻タケの叔父・木下秀一郎未来派美術協会の中心的存在で、この年にロシア未来派の大御所ダヴィド・ブルリュックと共著「未来派とは?答える」を出版している。前年に沖縄から上京した詩人・山之口獏はこの年20歳。下宿代が払えず駒込片町の荒物屋の二階の先輩の下宿に転がり込むが、そこも追い出され先輩と二人で駒込中里の一軒家に移る。

志賀直哉はその年に長編「暗夜行路」が頓挫して連載休止となり、ほぼ丸一年を短編「雨蛙」(二十三枚)の制作に費やす。この小説は技巧的に過ぎると正宗白鳥からは批判される。このころ小林秀雄東京府立一中在学中に初めて書いた小説「蛸の自殺」を志賀に送り称賛の手紙を受け取っている。この年京都に住んでいた志賀のもとにはまだ何者でもなかった若い谷川徹三尾崎一雄網野菊らが訪れ、初対面している。彼らは志賀の作品に感動し、懐に自分の書いた原稿を抱えて会いに行った。のちに志賀を訪ねることになる小樽高商の学生であった小林多喜二はこの年に何作かの小説を文芸誌に発表している(「健」「藪入」「継母のこと」「ロクの恋物語」)。宮沢賢治は28歳で花巻農学校の教師をしながら春と修羅に収められる詩24編を創作していた。

3月4日、太宰治(津島修治)の父・源右衛門(貴族院議員)が東京の病院で53歳で亡くなる。4月には県立青森中学校に入学、遠縁の青森市寺町の豊田家より通学する。

雪のまだ深く積つてゐた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を號外で報じた。私は父の死よりも、かういふセンセイシヨンの方に興奮を感じた。遺族の名にまじつて私の名も新聞に出てゐた。父の死骸は大きい寢棺に横たはり橇に乘つて故郷へ歸つて來た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎へに行つた。やがて森の蔭から幾臺となく續いた橇の幌が月光を受けつつ滑つて出て來たのを眺めて私は美しいと思つた。
 つぎの日、私のうちの人たちは父の寢棺の置かれてある佛間に集つた。棺の蓋が取りはらはれるとみんな聲をたてて泣いた。父は眠つてゐるやうであつた。高い鼻筋がすつと青白くなつてゐた。私は皆の泣聲を聞き、さそはれて涙を流した。

川崎長太郎は1月、「死刑宣告」の萩原恭二郎、岡本潤、壷井繁治ダダイズム同人誌「赤と黒」を創刊した。批評家の伊福部隆輝(のちの伊福部隆彦)は「現代芸術の破産」の中でこうしたダダイズム詩人らを「プロレタリア誌派の邪道」として批判している。前年(1922年)に「根津権現裏」を刊行した藤澤清造が7月、初の商業誌掲載小説「一夜」を『新潮』に発表。

この年の日本における最大の歴史的出来事は9月1日の関東大震災であろうが、上記の人々はいずれも震災による自らの生命身体への直接的な被害は免れた。いちばん影響を受けたのは小田原に戻ったが家が全焼して再び上京することになった川崎長太郎だろうか。

谷崎潤一郎はこの年の3月か4月に尾上町の「アカシヤ」という宿の女将のお千代から、今年八月一杯のうちに横浜が全滅するような地震があると小野哲郎が言っていたと聞かされる(「『九月一日』前後のこと」)。小野哲郎は実業家・小野光景(生糸貿易の小野商店創業、横浜正金銀行頭取)の二男で兄が急逝したので大正8年から家業を継いでいた。地震恐怖症だった谷崎は9月1日箱根でホテルに向かうバスの中で地震に遭ったが、汽車が電車に乗っているときに遭遇したいと考えていた谷崎は「しめた」と思ったという。谷崎も震災を機に住居を関西に移した。

高村光太郎はアトリエを下町からの避難者に開放して何か月か四畳半で暮らした。智恵子は前年から健康すぐれず、この年から機織りをはじめた。

 

1923年(大正12年)と今2023年(令和5年)を比べて見ると、一方はロシア革命の直後で社会的にも芸術的にも進歩的な雰囲気が(少なくともインテリ層の間には)満ちていたように思われるが、今日は資本主義リアリズムを超える展望もビジョンも見えず(「脱成長コミュニズム」を本気で信じている人はどのくらいいるのか?)、社会的にも芸術的にも反出生主義的なディストピアの雰囲気に満ちているように感じるのは自分だけだろうか。当時は素朴に信じられていた科学主義がもはや人工知能(AI)による人類滅亡危機と結びつき、それに対する効果的なアンチテーゼが生まれる気配は感じられない。

もちろん、大正12年の後に待ち受けるのは日本帝国主義の暴走であり(それはソヴィエト共産主義というもう一つの幻想に対する空想的アンチテーゼともいえるのだが)、1931年から1945年に至る戦争による社会的破滅であった。

尾形亀之助の大正末期から昭和初期への詩的過程は、日本全体の<空想から無へ>至る過程を先取りしていたとも言えるのではないか、というのが福田和也尾形亀之助の詩 大正的<解体>から昭和的「無」へ』を読んで抱いた個人的感想であった。