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「宿る」ということについて

今日の「あまちゃん」再放送第91回は、神ドラマの中でも屈指の神回、「アキVSユイ」の超絶バトルの日だった。

この回を見て感動して10年前に書いたブログを読み返してみた。

wellwellwell.hatenablog.com

10年前も休日(海の日)の月曜日だったのを思い出した。

今でもこの15分は、「金八先生」の加藤優が逮捕される回と並んで、自分がTVで観たドラマ史上最高のものだったと思う。

ドラマでも映画でもそうだが、本当に心が揺さぶられるものには、何かが「宿って」いる。

それは人為を超えたインスピレーションのようなもので、そう書くと何かオカルトめいた物言いに聞こえるが、そうではなくて、何かを表現しようとする人間なら誰もが追い求める「あの体験」の事を言っている。

最近は「ゾーン」などという言葉が流行っているようだが、ある努力と鍛錬と集中が行くところまで行き、それにある種の環境が加わると、当事者の力を超えた何物かが「宿る」瞬間がある。それはほとんど当事者の意図しない形で起こる。

人為的に「それ」を招き寄せようとしても決して上手くいかない。だからといってただ偶然に任せるだけでは「それ」は決して起こらない。

ごく稀に、そのような「宿った」表現に出くわすことがあり、「奇跡」などと呼ばれたりする。

あまちゃん」というドラマ全体がそのようなものだったと思う。

奇跡は二度は起こらないのが普通だ。安易な「あまちゃん2」をやらなかった(というよりできなかった)のは賢明なことだったと思う。

能年玲奈という女優に限って言えば、彼女はもう一度「奇跡」を起こしている。

この世界の片隅に」という作品の彼女の声には何かが宿っていた。

二度あることは三度ある、という諺もある。

 

西洋音楽の分野で「宿り」がどのように起こったのかを研究した本に、名和秀人「大作曲家『霊感』の謎」というのがあって、面白く読んだ。彼の研究によれば、真の傑作が誕生した時期というのは不思議と重なりがない。ハイドンモーツアルトが死んだ後に次々と傑作を書き、ベートーベンが病に倒れ創造できない時期にシューベルトが偉大な作品を生み出した、等々。

ロックの歴史について言えば、ビートルズ(特に初期)は間違いなく「宿っていた」し、ストーンズは「ベガーズ・バンケット」から「メインストリートのならず者」までは宿っていたと思う。1967年から1968年のロックには全体として何かが宿っていた。

 

そういう表現にリアルタイムで出会えるのは幸運なことである。

そのために人生を棒に振るようなことさえあるが、そこに後悔はない。

一度も「宿った」経験のないまま一生を終えるよりもずっといいだろう。

 

youtu.be

L'aquoiboniste / Jane Birkin

 

彼は究極の投げやり主義者

哀しいジョークの名手

口癖は「ご自由に」

「何でもいいさ」

 

究極の自由放任主義

控えめなギタリスト

まともに弾いたためしがない

どうにでもなれ


「何がどうなってもいい」が座右の銘

哀しいジョークばかり好んで言う 

口癖は「どうでもいいよ」

「何でもいいさ」

 いわば無造作紳士

ほんの少し理想家でもある

彼の言うことはいつも

何がどうなってもいいってこと

 

何がどうなってもいい奴

滑稽な無関心を気取る男

正しいことも間違ったことも

何でもあり


究極の投げやり男

悪態はつかないかわりに

いつも「僕がやりたいことは…」というけど

最後にはどうでもよくなる

自由人気取りな奴

彼は眼医者を必要としない

この世の汚さを見たくないので

どうでもいいんだ

 

 いわば無造作紳士

私の目を悲しそうに見つめてこう言う

「僕が愛するのは君だけ

他の連中は糞みたいなもんだ」

 

youtu.be

Je t’aime, je t’aime
oh, oui je t’aime!
moi non plus

愛してるわ

そう、愛してるのよ

俺も、そうじゃない

 

l’amour physique est sans issue
je vais, je vais et je viens
entre tes reins

肉体の愛には出口がない

君の腰の間を行ったり来たり