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Isson

一村の性格を表す一言は、と問われれば、まじめ、誠心誠意、一直線などいろいろあろうが、私は「ぶれない」という一言に尽きると思っている。過去に、生活に関することでは別の道を考えたこともあるにはあったが、絵画制作におけるその方向性や、目指す目標、追及の度合いなど、恐ろしいほどぶれない人である。これは一村に限ったことではなく、創作活動をする人間にはよくみられる資質であるが、一村の場合この強さが際立っていた。

現在残された作品の数々は、自身の志にのみ生きた軌跡というべきで、それら奄美作品は、画家の記した〈墨画の近代化〉という一言によって、亜熱帯の植物を墨彩で描いた謎が解けるかもしれない、と思っている。

大矢 鞆音「評伝 田中一村」p589より

田中一村についての評伝、大矢 鞆音「評伝 田中一村」(生活の友社、 2018年)と評伝というよりフィクション小林 照幸「神を描いた男・田中一村」(中央公論社、1996年)を読む。

ストリート・スライダーズのハリーが好きな画家と言っていたので興味を持った。
1984年にNHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」が放映され、大きな反響を呼んだという。たぶんハリーはこれを見たのだと思う。

これほどの画家がまったく無名のまま亡くなり、生前に個展が一度も開かれることがなかったというのは、不遇のまま死んだヴィンセント・ヴァン・ゴッホを思い出させる。

この人はもっと知られるべきだし、彼の絵は今の若い世代にも衝撃を与えると思う。ハリーが言及してくれなければ知らないままだったと思うとぞっとするし、ハリーには感謝するしかない。

「評伝 田中一村」によれば、この本の執筆中(今から10年くらい前)にはアメリカや海外のバイヤーが田中の作品を買い漁る動きがあり、著者が何とか作品を収集すべく働き、海外流出への警告を発している。田中の奄美時代の日本画作品は時が経つほど、日本だけでなく海外でもその価値がうなぎ上りになるだろう。

貧困の中で、紡工場で日給450円の染色作業の仕事をして貯めた金で暮らし、自分の庭で作った野菜で自給自足し、おそらく栄養失調で69歳で倒れ亡くなった田中一村が命を削りながら描いた絵画は、絵のことは何も分からない自分の目には、他の日本人画家の大家の描いたものよりも遥かに輝いて見える。

小さな図録や写真だけでもけっこう来るものがあるので、美術館でぜひ実物を見てみたいと思った。

クワズイモとソテツ(1973年以前、絹本着色、額装155.5×83.2cm)