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一般意志とイデオロギーX(東と外山)

階段のまんなかでじっとにらみあっていると、彼がたとだとしい英語で用心深く話しかけてきた。「私、私の名前は、ドクター・カストロフィデルです。お願いします。私ーーあなたがたのすばらしい船を訪問できますか? 私…私…私はキューバです! あなた、ドイツ人(アレマン)ですか?」

『諜報員マリータ』(マリータ・ローレンツ著、新潮社、15頁)

文フリで購めた外山恒一の書簡(メール)集の中の「人類史におけるぼくの役割はすでに終わっています」という言葉に感銘を受けたと先日書いた。

外山は、2003年に獄中でファシズムに開眼し、それを2004年に「まったく新しい左右対立──イデオロギーX──」というかたちで発表するまでが彼の歴史的使命であり、それ以降の彼の活動(都知事選の伝説的な政見放送も含め)はすべて蛇足にすぎないと書いている。

彼がそのように自己規定しているのをほかに見たことがない。最愛の女性に対する恋文の中でのみ打ち明けた本音だったのだと考えると、この言葉は猶更感慨深い。

今の外山からすれば、あれは血迷った挙句の一時の戯言に過ぎないと言うのかもしれないが、本音と捉えた方が面白いので、勝手にそう解釈する。

そうすると、外山が「人類史的使命」として発表することを神によって運命づけられた「ファシズムイデオロギーX)」とは一体何なのか、ということが問題となる。

これについては外山自身によるさまざまな解説があり、彼のHP「我々団」ですべて読むことができるのだが、ここではそうしたものはいったん無視して、東浩紀がいうルソーの「一般意志」の解釈と絡めて妄想を繰り広げてみたい。

もちろんこれは言葉遊びのようなものであり、しかもここに書くのは断片と結論部分のみにすぎない。それに至る具体的な過程や理論的肉付けは、もし面白いと思った人がいたら、自由に展開してみて欲しい(私が知らないだけで既にどこかに書かれているのかもしれないが)。

 

* * *

 

東浩紀一般意志2.0』と『訂正可能性の哲学の中で、ルソーの『社会契約論』における「一般意志」について二つのかたちで論じている。前者では主に市民の集合的無意識として、そして後者では「訂正可能性により遡行的に見出される」ものとして。

そして前者の「一般意志」は情報技術の発達により「データベース」(情報環境に刻まれた無意識の行動履歴のデータベース)として具体的な「モノ」として可視化されるに至っているという。

 

外山恒一のいう「新しいスターリニズム」とは、この前者の意味での「一般意志」に基づいて社会を統治しようとする思想のことである。

そして「ファシズムイデオロギーX)」とはこれに抗う思想のことである。

同時に、東浩紀の言う「訂正可能性により遡行的に見出される一般意志」を体現する思想でもある。

 

一般意志とは、社会契約の前提として初めから存在するものではなく、常に事後的に遡行的に見出されるものである。

一般意志は民主主義によって明らかにされることはない。民主主義によって示されるのは個々人の利害の集積である「全体意志」でしかない。この意味でファシストは民主主義体制に反対する。

「すべての色彩を消し去り、すべての個性を平板化する匿名にして灰色の民主的平等主義」ムソリーニの論文より

一般意志とは政治的概念であって社会的概念ではない。社会的概念であるとすれば、それは「データベース」(ビッグデータ分析)から自動的に導き出されるものと言うことになる。ビッグデータ分析においては、人間の固有性は捨象される。

政治的であるということは、人間の固有性を扱うことを意味する。

政治的であるということは、敵と味方との間を峻別し、共同体の内部を定め、外部を排除することを意味する。(カール・シュミットの友敵理論)

人間の固有性(主体性)を抜きにしては敵と味方の区別はあり得ない。

 敵と味方を峻別する線を、もう一度、新たに引き直さなくてはならない。
 そういうことを、90年代の私は主に考えていた。
 そして漠然とながら、本来のファシズムというのは、実はそういうものだったのではないかと想像した。つまり、打倒すべき敵を確定し、団結すべき味方を確定すること。それを、従来のモデルをいったん放棄して、新たにやり直さなければもはやどうにもならないという確信。ファシズムのキモ、カナメは、本来ここらへんにあるのではないかと、私は直観したのである。
 もう少しくだいてみると、つまりファシズムには、本来「理想社会」のイメージなどないのではないかということである。ファシストにとって何よりも重要なのは、今現在、誰が敵で誰が味方なのかをはっきりさせるという、その一点だけではないのだろうか。そして、ファシズムの運動とは「とにもかくにも敵をやっつけること」であって、その進展にともなって形成されてくる具体的な社会システムは、単に「結果」にすぎないのではないのか。

外山恒一『わが「転向」』より

ファシズムとは「戦友的絆による社会の求心化」である。(福田和也『地ひらく』)

だが、この「戦友的絆」は「訂正可能性」に開かれている。

すなわち「昨日の敵は今日の友」になりうる。

だがそのためには「戦友」と呼ぶに値する「絆」を結ぶことが必要である。

 

すべての人民が同時に一般意志を体現することはあり得ない。

一般意志は時に少数の人々によって、稀に特定の個人によって特定の場面で体現される。

ファシストは一般意志の体現者である。

つづく