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一休宗純年譜(暫定版)

有漏(うろ)ぢより無漏(むろ)ぢへかへる一やすみ

あめふらばふれ風ふかばふけ

一休

応永元年(1394年)

1.1 京都に生まれる。母は後小松天皇の側室。

師は伝統の血すじの人である。その母は藤氏で、南朝の高官の子孫であった。後小松天皇につかえ、その側室となった。天皇は彼女を寵愛されたが、他の女官たちが「彼女は南朝の義を守り、いつも剣をしのばせて天皇をねらっている」と讒言をしたので皇后の奥殿を出て庶民の家に戸籍を入れ、師を出産した。
師は幼児のころから貴人の相があったが、世間ではこれを知っているものはいない。その出産は、正月一日の日の出の時であったという。
『一休和尚年譜』より

応永6年(1399年) 6歳

京都安国寺の侍童となる。

さてどのような経緯があったのか不明であるが、彼が六歳のとき、母親の手もとをはなれて禅寺の小僧にやらされる。おそらく母一人子一人だったと思われるこの母子家庭の離別は、全く悲愴なものであったに相違ない。のちに一体は『狂雲集』の中でしばしば「断腸」という言葉を使用するが、彼自身の強烈な体験からにじみ出た言葉と思われる。このことはやがて、かれが一生母親コンプレックスに悩まされることにつながる。

彼がはじめて出家した寺は京都の安国寺であるといわれる。この安国寺は旧地名で四条坊門南頬櫛笥大宮の間にあって寺城は東西一丁、南北半町もあったという。今でいう中京区蛸薬師通大宮西入、因幡町のあたりということになる。そのときの師は像外集鑑という人で、この人の師が鉄舟徳済といい、その鉄舟の師がかの有名な夢窓国師である。

彼は師の像外から周建と名付けられた。だから彼の小さい豆小僧のころを一休さんと呼ぶのは間違いである。とにかくこのころは禅寺の小僧というだけで、正式には行者といい、得度をしていないのでまだお坊さんとはいえない。

平野宗浄『一休宗純』より(以下同じ)

応永15年(1408年) 15歳

「春衣宿花」の詩で名をあげる。

吟行の客袖 幾ばくの詩情ぞ
開落百花 天地淸し
枕上の香風 寐か寤か
一場の春夢 分明ならず

 

(訳)

花見の客たちを酔わせたわずかのひるの袖の香りよ。

あっという間に散っていったあの百花のはなびらよ。

家へ帰って、寝ころんでみたものの夢かうつつか、

まだ瞼にちらついて枕もとの衣かけから香りがただよってくる。

応永17年(1410年) 17歳

妙心寺の謙翁宗為に師事。

「私は四十年前(十六歳)に、ある僧が法堂で禅僧の出身の身分について話すのを聞いた。やれ商人だ職人だ召使いだなどと、その出身の職業をあばきたてた。おまけにひどいことには、手でそのしぐさを喜似たりした。 ああなんたることか。 すぐさま耳をおおってその場を出たのである。
そこで二つの偈頌を作ったが、その心はその弊害を改めようとするところにある。源氏・平氏・藤原氏・橘氏のような名門の人びとでも、仏門に入れば皆同じく釈氏となって釈迦の御弟子になる。それは乞食をしてその命を保ち、仏法を求めるのを、我が身の根本とするからである。そこでは貴族も家柄もないはずだ。
現在どこの寺でも人を評価するのに、必ず出身の身分をとやかくいうようだ。どうしても辛抱することができず、ついに以前作った神詩を写し、四方に掲示したが、だれがはたして称賛してくれるだろうか。」


仏法を説き押を説く場所へ

出身の身分のことをもち出した

そのような人を辱める言葉を

聴いて思わず声をのむ

禅問答にも作法がある

それを無視してやるならば

修羅のけんかに異ならず

地獄へ直ぐにさかおとしだ

応永21年(1414年) 21歳

謙翁没。自殺を図る。

ある日観音像の前を出て湖橋の方へ行き、心に次のように思った。
「今おれは身投げしようとしている。もし助かったならば、それは観世音菩薩の加護であることに間違いはない。そうではなく、たとい魚の餌食になったとしても、来世ではきっと自分の志を完遂するであろう。
観世音菩薩がどうして、おれを見捨てることがあろうか。決してそういうことはないはずだ。」
ちょうど身を投げようとするとき、とつぜん母の使者がやってきてそれを助けたが、周建の考えをおしとどめ、
「今死ねばそれこそ親不孝ではありませんか。悟りの道は悠然としたものであるはずでしょう、そのようにあせってはいけません。」
といったので、周建はやむをえず京都の母のもとへ帰った。

応永22年(1415年) 22歳

華叟宗曇に師事。

祥瑞庵で入門を乞うたが、華叟は門を閉じて固くこれを拒んだ。周建は心の中で誓う、「おれがもし華叟和尚にまみえることができなければ死んでもかまわぬ』と。

野宿せねばならぬ日が続いたが、少しもへこたれなかった。夜は漁師がつなぎ止めた空舟で寝て、朝は必ず庵の門前で座りこんだ。そうして四、五日もたったある日、華叟が村人の法事の供養に行くとき、周建が門の側で伏しているのを見て、侍者の僧に「先日やってきた僧がまだここにいる。今すぐ水をぶっかけて棒で追い出しなさい」といった。

周建は水をぶっかけられたり、棒でぶんなぐられたりしながら考えた。
昔、安国寺へ入門するときはもちろん、建仁寺へ入門のときも、清叟和尚についたときも、謙翁和尚に参じたときもこんなひどいことはされなかった。今までの自分はあまりにも甘やかされてきたのではないか、今こそ本当に禅の修行の門に入る時節がやってきたのだ。」

そう考えると、これくらいの荒行は平気であった。現在の僧堂もこれのまねごとをしているが、すべて仕組まれた芝居で、食事もさせてくれるし泊めてもくれるし、やがて必ず入門させてくれることも決まっている。しかし祥瑞庵の庭詰は、まったく冷たくきびしいもので、入門させてくれるなんの保証もなかった。

華叟が法事から帰ってくると、周建はまだ厳然として座っていたので、ついに上がらせて相見を許し、わずかに言葉を交わしただけで心が通じあったという。

応永27年(1420年) 27歳

五月夜、鴉鳴を聞いて大悟。

その旨を華叟和尚に伝えたところ、華叟は「それは羅漢(小乗の悟った人)の境涯であり、作家(すぐれた働きのある禅者)のものではない」といった。

すると一休は、「私はただ羅漢を好み、作家をきらうだけです」といった。

そこで華叟は、「おまえこそ真の作家だ」といい、投機の偈(悟りの境涯を示す禅詩)を作って呈出するようにいった。

凡とか聖とかの分別心や怒りや傲慢の起こる

以前のところを即今気がついた

そのような羅漢の私を鳥が笑っている

(それはちょうど寵愛されて憎上慢になっていたころの班姥女とそっくりだ
やがて失寵して長信宮に入った彼女と同じくそのような自分をあわれに
思わねばならぬであろう)

班姥女の美しい顔も

あの昭陽殿の烏が日光を受けて照り輝くのに及ばぬとはと

彼女は嘆いたが

永享12年(1440年) 47歳

請われて大徳寺如意庵に住したが九日にて去る。

寺の什物や財産類を
すべて庵の中に置き
木杓やざるなどを
東の壁に掛けた
田舎の静かな地方に多年
一所不住の生活をしてきた私には
こんな無用の道具はいらん

 

住職した十日間
随分気ぜわしかった
私はどうも煩悩が多すぎる
いずれあなたが来られて
私を尋ねられるなら
魚屋か居酒屋か娼家を
ウロウロしていることだろう

文安4年 (1447年)  54歳

 大徳寺の腐敗を痛恨、 自殺をはかる。

「師五十四歳。大徳寺では事故が多く、数人の僧が獄に入れられた。一門は悲哀を感じたが、秋九月、師は特にこれを心痛し、潜かに譲羽山に入り餓死しょうとした。そのことが天皇の耳に入り、直ちに勅して指令された。『和尚がかならずこのことを実行しようとするならば、仏法も王法もともに滅ぶであろう。師よ朕を見捨てるな、師よ国を忘れるな。』師は勅に答えていう『私もまた天子の御政道下の一国民にすぎません。帝の命令をお断りするわけにはまいりません。」 重陽の日、 月末に京へ帰った。」

『一休和尚年譜』より

享徳3年(1454年) 61歳

長年対立していた兄弟子の養叟和尚に逢い、長年の行き違いを解こうする。

一休がある日、弟子の瑞子を連れてとくに養叟和尚に逢い、長年の行き違がいを解こうと思ったが、弟子たちは皆いさめ止めた。
一休は決心がつかず、そこでまず徳禅寺へ行き、徹翁祖師の像の前に参詣し、 焼香して占いをした。私は今大用庵へ参り、あいさつをしようと思いますが、祖師の御意向はいかがでしようか、と目をつむって占いを引くと、行けというくじが出た。
そこですぐ養叟のところへ行くと、養叟の徒弟が出て来て一休を罵った。養叟はその徒弟を叱り、追ばらって一休を引き入れて面接し、 ゆったりとくつろいでいった。

「一度来てくれるのを待っていたよ。ちかぢか价子をつかわして来てもらい、いい聞かせようと思っていたのだ。 貴公は先師の顔に糞をぬりつけた。しかし私はまだ他人に話はしていない。私の弟子にいっただけだ。」

一休がいう「家の中には同じ一家の者でなければわからぬ話がある、というではありませんか。口外せぬといって恩にきせられるすじはありません。糞をぬりつけたというわけを、一つくわしく話して下さい」

養叟がいう「聞くところによれば、貴公は百丈餓死の話と、徹翁和尚が栄衒の徒(自分をひけらかし売りこむ学徒)に示す法語をとりあげて学徒に示しているそうだが、先師が在世のころには、こんな話を聞いたことがない。」

一休がいう「私は百丈餓死の話を別に作りあげたわけではありません。一日作さざれば一日食わずという事は、 はっきりと虚堂祖翁の菩説に見られるではありませんか。
また徹翁和尚の法語のことは、先師が毎日口が酸っぱくなるほど話されたではありませんか。貴公は健忘症じゃないですか。
聞くところによれば、貴公は非参禅と称して弟子たちに禅を説いておられるとか。しかし先師の在世中には、そんなことを聞いたことはありません。……」

一休のいう栄衒の徒への戒めとは以下の法語のことである。

「およそ禅に参じ、修行する人たちは、その日常生活をかならず清浄にしなければならぬ。

不浄ではいけない。

その日常生活の清浄とは、一つの公案を究明し、無概念のところに到達し、一日中工夫を怠らず、たえずそのよってくるところの根源を断ち、仏も魔も知ることができないような、神秘的なところをも明快に断ち切ってゆく。そしてつねに名を隠し、都会を離れて暮らし、公案で得た力量を実践し、雑念を起こさずまっしぐらに進む。 こういう人を日常生活の淸浄な人というのだ。

それにもかかわらず、自分は高徳の大和尚であると称し、挂杖や払子をもったいぶってふり回し、人びとを集めて説法し、 れっきとした家の子たちを引きつけ、 名誉や利益を好み、 修行者を室内に参禅させ、仏法の極意を悟らせてやるといっては、参じてくる者に似て非なる様子をさせ、ろくでもない言葉をしゃべらせる。また教える者を偏屈にさせたりする。こういう者どもは売僧である。まったく日常生活の不浄な者である。仏法を世渡りの道具と心得ているこれらの者は、自分で自分を売るやからという。
およそ身体があるのに、 一生着るものがなかったという人の例はないし、 口があるのにまったくものを食べたことがないという人もない。

もしここの理屈がよくわかったならば、 どうして世間の人びとにてらう必要があろうか。このような人びとは無限に永い間、餓鬼や畜生の世界に落ちて、そこから出ることができないに相違ない。たとい人間の世界に生まれても、病となって苦しい思いをして、仏法の名さえ聞くこともないであろう。おそるべし、おそるべし。」

康正元年(1455年) 62歳

『自戒集』を編む。

「今ヨリ後ハ、養叟ヲバ大胆厚面禅師ト云ベシ。-面皮厚クシテ、牛ノ皮七八枚ハリツケタルガ如シ、紫野ノ仏法ハジマリテヨリコノカタ、養叟ホドノ異高ノ盗人ハイマダキカズ―」

長禄元年(1457年) 64歳

『骸骨』刊。

これは庶民に仏教の理をわかりやすく説く目的で、 のち江戸時代に至ってもたびたび版を重ねた。内容は、酒盛りをする骸骨、寄り添って眠る男女の骸骨など、さまざまなしぐさの骸骨を画いた絵と説話から成っている。

「生まるれば死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も」

応仁元年(1467年) 74歳

応仁の乱起こる。薪村に移る。

文明3年(1471年) 78歳

盲目の森女と知る。

我が手を喚んで森手と作す

我が手何ぞ森の手に似たる
自ら信ず公は風流の主
発病玉茎の萌を治す 
かつ喜ぶ我が会社の衆

〔訳〕わが手をよんで森女はそえ、森女の手はわれにそえる。森女の風流は、玉茎の萌をみせる。われはこれを喜ぶ。


美人の陰に水仙花の香あり

楚台まさに望むべし更にまさに攀ずべし
半夜の玉床愁夢の顔
花は絞ぶ一茎梅樹の下
凌波の仙子腰間を造る

〔訳〕夢がさめたとき、横たわっている白くゆたかな女体をみて、さらに挑む。梅樹のもとにほころんでいる水仙の花。腰間にまといついていて、軽くゆらぐ。

 

婬水

夢は迷う上苑美人の森
枕上の梅花花信の心
満口の清香清浅の水
黄昏の月色新吟を奈せん

〔訳〕夢うつつのうちに上苑の美人の森に迷いこんだ。枕上の梅の花はかぐわしい香りをはなっている。婬水を口にふくめば清らかな香りがする。故人も月色のなかでこの香りをかいだであろうか


美人の婬水を吸う

美人の婬水を吸う
密に容し自ら戀ず私語の盟

風流吟謡んで三生を約す
生身堕在す畜生道
絶勝す鴻山藏角の情

〔訳〕ひそかにいってみずから慙じるささやき。情交終わって末世までの契りを約束する。そこにこそ生身を畜生道に堕して末世までも人びとを救おうとする潟山の情をたたえることができよう

文明6年(1474年) 81歳

勅命により、大徳寺住持となる。

文明9年 (1477年) 84歳

応仁の乱ほぼ終わる。

文明10年(1478年) 85歳

大徳寺方丈落成。

文明12年(1480年) 87歳

『狂雲集』を編む。

風狂ノ狂客、狂風ヲ起ス
来往ス姪坊酒肆ノ中
具眼ノ衲僧、誰カ一拶セン
南ヲ画シ、北ヲ画シ、西東ヲ画ス

 

(訳)

風流狂いのキチガイ坊主がまたイカレたことをおっぱじめた

風俗にハマってみたり飲み屋街に入り浸ったり

おい、誰か見る眼のある坊主はいないのか

このキチガイをぶん殴れる奴はいないのか?

南はこっちだ、北はこっちだ、西東はこっちだと言って好き勝手ほっつき歩いてる

このバカ野郎を叱り飛ばせる奴はいないのか?

文明13年(1481年) 88歳

11.21 没。

遺誡

「わしの死後、弟子たちは山に入るのもよい。飲み屋や女郎屋にゆくのもよい。

だが禅だ道だと人に説きたてる奴だけは、まさに仏法の泥棒である。

一派の仇である。盲が盲の手を引くのだから、わしも先師の罰をいただくことは必定だ。 一人も印可などあるはずはない。

よしんば、 人に説かなくとも、 わしは仏法を知っているなどという奴は、お上に申し出て、早速成敗するがよい。

死後のわしへの忠節である。ゆめゆめ忘れる勿れ。

一休の肖像画、禅宗のほうでは頂相といいますが、これは非常にたくさんあって、 おそらくこれほど数多くの像を残している禅僧は、ほかにはいないだろうと思われます。しかもその像の大部分は、他の禅僧たちのそれとは違って、 いわば型破りの例外的なものと言っていい。この墨斎の描いた頂相を見ましても、 頭の毛は坊さんであるにかかわらずぼうぼうとしているし、 不精髭をはやしている。 そして非常に近代的な顔です。かしこまったところとか、あるいは、とりつくろったところとか、そういうものがまったくない。いわば、ふだん着のままでてきている。

あの目の鋭さ―これが、この墨斎の描いた肖像画のいちばんの特色と言っていい。何もかも一目で見抜いてしまう目です。 嘘あるいは偽物そういうものをこの目で見てとり、 とりつくろった装いをはぎ取って裸にして見てとるという、そういう目だと思います。
こういう目をした頂相は、他には見当たらない。そういうところに、この絵の特色がある。 一休は、 例外的な禅僧であるだけに、 非常にわかりにくい人物で、一筋繩ではいかないところがある。それだからこそ、いっそう興味があるわけです。

唐木順三『日本史探訪』第11集

 

唐木

まさに一休の生きた時代は転換期です。大転換期、過渡期と言ってもいい。一休の生まれたのは、足利三代将軍義満が金閣寺を造ったころで、一休が八十八歳で亡くなったのは、八代将軍義政が銀閣寺を造ったころ、義政が将軍の職を引退したころです。つまり金閣から銀閣へという時代が、一休が生きた時代と言ってもいい。その中に徳政一揆もあり、それから下剋上があり、それでとうとう応仁の乱という、十年以上も続く戦争が京都周辺に起こるという大転換期です。

文化史で言えば金閣寺の北山文化から銀閣寺の東山文化へ移る転換期です。これはたいへんな変化だと思います。つまり金から銀へ、ビカビカした金閣寺からいぶし銀の銀閣寺へというわけですから。この義政を中心とした「しぶい」というような言葉がはじめてあてはまる文化が出てきたわけです。そういういぶし銀の文化へ移っていった契機として、一休は非常な大きな役割を果たしています。

 

中世芸術の源泉

《一休の交友の範囲は、単に仏教界にとどまらなかった。能の世阿弥、禅竹、茶の珠光、俳諧連歌の山崎宗鑑や宗長など、さらには墨絵の曾我蛇足や墨斎など、当時の文化を推進した錚々たる顔ぶれが、皆、一休の禅風を慕って周囲に集まってきた。》

唐木

一休なくしては、中世の中世らしい芸能・芸術は考えられません。概括して言えば、それは否定の契機が入ってきたということです。

禅の言葉で言えば、無とか空とかが、有とか色の根源として出てきたわけです。さきに一休が、骸骨、また死から、生身や生を見てきたことを言ったが、それと同じことです。

世阿弥また禅竹は、所作のないところ、「せぬ」ところ、「せぬひま」が見所だと言っています。また「銀碗裏に雪を盛る』という禅語で、能という舞の極意を示しています。目だたないこと、いわゆる無作の作が、ほんとうの作用・行為だというわけです。その「冷えたる」能もここから出てきたわけです。

茶道においては、村田珠光において「わび茶」がはじめて出てきたといわれています。 珠光は一休に参じて、「仏法は茶の中に有り」と言われ、いわゆる茶禅一味のわびた茶を興したといわれます。豪華な書院内での大名茶に対する露地草庵の茶ですが、それはやがて利休によって大成されました。

また俳諧連歌の山崎宗鑑は一風変わった人物ですが、彼もまた一休から強い感化を受けたといわれます。宗鑑の編集した『新撰犬筑波集』が、「かすみのころも裾はぬれけり」「佐保姫の春立ちながら尿をして」で始められていることから推察がつくように、それは従来の堅苦しい規則による純正連歌とはおよそ違う、俳諧滑稽の庶民的なものであった。「寒き夜はこそ人丸になれ」に、「うす衾引きかぶりたる柿のもと」と付けるなど、従来神聖視された柿本人麻呂を存分に茶化しているわけで、ここにも当時の下剋上の様相が表われていると言えましょう。

さらに宗祇の直弟子であった宗長がどれほど強く深く一休禅師を思慕したかは、彼の手記を見ればわかります。彼も自由無碍の精神を一休から受け継いだ一人です。

また蛇足墨斎などの墨絵が、黒という墨色だけを用いて、他の色彩をいっさい否定したのも、やはり禅、ことに一休禅が影響を及ぼしています。

一般に中世の諸芸術・芸能は、一方では「わび」を特徴としている。すなわち否定の契機が入っているわけですが、それでいてけっして貧相ではないというところがあります。たとえば茶室が四畳半・三畳と狭められながら、それでいてじゅうぶんというところがある。

また中世は他方に、俳諧滑稽の庶民的なもの、たとえばさきの『新撰犬筑波集』のようなもの、また能に対する「狂言」を生み出していますが、そこには従来にない自由さや、表現の自由があります。これもまた無碍自在の庶民禅とつながりがありましょう。

 

森女のこと

《盲目の女性森女も、そうした一休の人柄にあこがれた一人だった。

おもひねのうきねのとこにうきしづむ
なみだならではなぐさみもなし》

唐木

びっくりしますね。森女とほんとうに会ったのは、一休が七十幾つの時です。森女はたぶん、四十代だと思います。森女というのは、盲目の琵琶弾き、ふっくらした美女です。

この森女は、心の美しい女性で、一休に心から尽くした人だと思います。それから一休の心のほどがよくわかった女性だったと思います。まあそういうこともあって、晩年の一休の身辺に、いつも侍っていたということです。森侍者という呼び方もそこからきているのでしょう。

『狂雲集』には、情痴と言ってもいいくらい露骨な愛欲をうたった詩も多い。普通の人の書いたあの種の情痴は、なんとなくあとくちが悪いのに、 一休がああずけずけ真っ正直に書けば、 それもまた一休だなあと納得せざるをえないような気持になる。それだけ一休というのは万事「おのずから」で、自然であったと言えるのでしょう。

そこでもう一つの問題は、今の「自然」、つまり、「おのずから」ということです。 人間にはだれにでも情欲とか―一休はそれを識情心あるいは情識心と言っています-まあ煩悩と言ってもいいですが、それが強くはびこっています。それは人間の体内にある一種の自然力だと言ってもいい。それをいくら焼き尽くそうとして努力しても焼き尽くせない。一般に焼き尽くせないというのではなくて、この自分にはどうしても焼き尽くせない。

たとえば、次のような詩を一休は作っています。

腹中ニ地獄ナル
無量劫ノ識情心
野火焼イテ尽クサズ
春風ニ草又生ズ

そこからまた次のような告白も出てくるわけです。 「我ハ本来迷道ノ衆生」とか、「不成仏性ハ本来心、本来成仏ハ仏ノ妄語」とか、さらには、「狂雲身上自屎ノ臭」また「生身堕在ス畜生道」とか、「破戒ノ沙門八十年」とか、いわば自己告白であると同時に自虐、自分で自分をさいなむ自虐が出てくるわけです。これは世にいう頓智一休などとは、天と地のようにかけ離れた一休です。これはむしろ浄土真宗の「煩悩具足の凡夫」「虚仮不実のわが身」に近い。

事実一休は本願寺の蓮如と親しく、念仏宗への傾きをも示しています。

右の一休の偽りない自己告白またその庶民性は、江戸初期の禅者至道無難に受け継がれ、さらには盤珪永琢、鈴木正三、白隠慧鶴らの仮名法話にまで伝わっていると思います。

脱体制の人間

《文明六年(一四七四)、八十一歳の一休は、勅命を受けてやむなく大徳寺四十八世の住持となった。しかし、 このことを一休は内心喜んでいなかったらしく、 すぐ退いて薪村のそまつな庵に帰った。そして文明十三年(一四八一)十一月二十一日、八十八歳で世を去った。

明応二年(一四九三)の祥月命日、大徳寺山内の真珠庵で、一休の十三回忌法要が営まれた。現在、その時の香典帳が残されているが、参拝者男女あわせて六百八十八人。中には、茶の湯の村田珠光など、一流の文化人の名にまじって、薪村の農夫やあの森侍者の名も見える。

一休ほど、多くの人から敬愛せられ慕われた禅僧は、かつてなかった。》