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資本主義リアリズム

2週間くらい前に妻にアマゾンで注文してもらったマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』の原書が届く。

邦訳の半分くらいの厚さの、薄い本だったのが意外だった。

町屋良平『青が破れる』と『しき』を図書館で借りる。

「資本主義リアリズム」の感想は以下の通り。

「この世界には、すでに資本主義の確固とした代替案は存在しない。今後も、資本主義体制の批判はできても、そのしかるべき代替案は、どこからも出てこないはずである。だからいまのような資本主義体制のまま、世界は今後もずっと突き進むしかない。だから、すべてがますます、経済至上主義と経済問題優先で決められていくはずである。

この資本のパワーは、それ自体が実体性のないものである。それは空虚である。それ故に、とするべきか、資本はきわめて強靭であり、極めてしなやかであり、かつ、したたかである。さらに言えば、資本は誰よりも力強く、逞しく、そして何よりも、我慢強い。だから、いくら資本に異論を唱えても、結局は、資本に勝てる者など、この世界には一人として存在しない。

むろん安藤忠雄のように、大資産家の住宅を海外でも何軒もつくっているような人は、すでに資本主義の過剰な加担者であり、その恩恵をたっぷりと受けている。だからそのうえで、安藤自身が資本主義を批判することは自己欺瞞になるので、彼は、資本主義を批判できる立場にはいない。

しかし安藤忠雄ほどではない、つまり、その他の圧倒的多数の建築家たちは、資本主義への異論を一つも唱えないよりは、何かは唱えるべきである。よほど単純な思考回路の人でなければ、資本主義を批判したら即座に「彼は左翼主義者だ」とは言わないだろう。むしろ現在のような過剰な資本主義の独り勝ち状態において、それをただ安穏と許容しているだけの人は、すでに「思考停止状態」だと言われても、仕方がないのである。

だが、それでも実に残念であるが、結局、いくら資本主義を激しく批判しても、最終的な結末は、資本主義の勝利に終わるのである。その理由は、何度も書いたが、実に簡単明瞭な話である。資本主義とは、ただの空虚だからである。資本主義は、利潤や営利以外には、基本的に何も考えていない。資本は、お金のことしか心配していない。そのように、呆れるほどの空虚に対して勝てる者など、この世にいるはずがない。したがって建築家は、これからも、イデオロギー抜きの趣味的な社会で、ただ資本主義体制に倣っていくだけである。少なくとも、いま、はっきりとわかっていることは―これは絶望的な事実であるが―ただ、それだけなのである。」

飯島洋一 「らしい」建築批判5 より)

この文章は、2014年に日本人の批評家が書いた論文の一部だが、2009年にイギリスの批評家が書いた『資本主義リアリズム』(マーク・フィシャー著、訳セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉、堀之内出版)の主張と軌を一にするものだ。そしてそれは多くの人々に共感できるものではないだろうか。

ドイツの経済学者ヴォルフガング・シュトレークによれば、資本主義システムは戦後経済成長が頭打ちになり石油ショックを迎えた1960年代末から1970年代半ばにはすでに崩壊の危機に瀕していたのだが、その後四段階にわたる「延命措置」を取ることにより現在まで破綻を先送りしてきたという。第一に人工的なインフレ政策(実体のない貨幣の投入)、第二にレーガン政権(そして英国のサッチャー政権)に代表される新自由主義の本格的な導入(金融資本の優遇と労働運動の弾圧・解体)と国債(国家債務)の巨大化、第三にサブプライム・ローンに代表される国家債務の家計債務への付け替え、そして現在進行中の第四段階が、中央銀行による資金注入(ゼロ金利、危機国の国債購入、株式購入)である。このような「貨幣で時間を買う」やり方がこの先いつまで続くのかは分からない。

個人的には、2008年にリーマンショックが起きる以前から、西側先進国を頂点とした後期資本主義の終焉は近いと思っていた。もっと言えば、1990年代初頭に日本のバブル経済が崩壊し、「失われた10年」と呼ばれる景気後退が始まった頃から、世界的株式市場の崩壊により資本主義が終わりを告げるのも時間の問題と考えてきた。しかし、資本主義体制は思ったより遥かに強靭であった。2019年初頭の現在も、その支配に終焉の気配は見えない。

『資本主義リアリズム』の邦訳が出版されたのは2018年だが、原書(2009年)における彼の考察は、10年経ってもまったく妥当性を失わないどころか、2017年1月に著者が自死した後、日本においても彼の主張への共感の声は拡大し続けている。

「はっきり言わせてもらおう。たまらなく読みやすいこのフィッシャーの著書ほど、われわれの苦境を的確に捉えた分析はない」――スラヴォイ・ジジェク(思想家)

「資本主義リアリズム」を著者はこう定義する。

「資本主義が唯一の存続可能な政治・経済制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態」。

「資本主義リアリズム」は、広く染み渡る雰囲気のように、文化活動だけでなく、教育や労働の現場を規制しながら、人々の思考と行動を制約する見えざる結界として働いている。

映画などの娯楽産業は、隕石の衝突や核戦争による世界の終わりのイメージを提示し、環境活動家たちは、気候変動による天変地異への警告(それは既に殆ど不可逆な形で進行中である)を発し続けているが、「世界の終わり」や「人類の滅亡」は想像できても、「資本主義の終わり」を想像するのは困難である。この本の第1章のタイトルどおり、いまや、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。

著者は、鬱病の増加や双極性障害ADHDといったメンタルヘルスの問題、巧妙かつ洗練された労働管理と非正規雇用の問題、教育現場の荒廃、「市場型スターリニズム」と呼ばれる新自由主義下における官僚主義(お役所主義)の実態など、普段は無意識のうちに目を背け、われわれの日常生活の無条件の前提とみなしている、「資本主義リアリズム」が生み出す種々の現象とその空虚さを次々に暴露していく。この本には指摘されていないが、とりわけ日本でこの数年の間に激増している家庭内暴力(DV)の問題についても同様のことが論じられるに違いない。

たとえば、彼自身が教員として携わっていたイギリスの公教育の場に蔓延している学生たちの態度を、著者は「鬱病的快楽主義」と名付ける。普通なら「鬱」は「無快楽」を意味するはずだが、資本主義リアリズムの無期限のダルさに幽閉されたティーンエイジャーたちは、常に何かが足りないと感じてはいるが、ゲームやドラッグの快楽を求める以外のことは何もできない。

何か短い文章を読むことを学生に求めたとき、教員がもっとも多く耳にする苦情は「つまらない」である。ここで問題になっているのは書かれた文章の内容ではない。むしろ読むという行為そのものが「つまらない」とされているのだ。それが意味するのは、昔ながらの若者的なアンニュイではなく、「接続過剰のせいで集中できない」SNS世代の注意力欠陥の症状だ。

彼らにとっての「つまらない」とは、チャット、YouTube、ファストフードからなるコミュニケーションと感性的刺激の母胎に浸りきった状態から離脱させられ、甘ったるい即自満足の果てしないフローを一瞬だけでも遮られることを意味している。娯楽の母胎に接続され続けることは、結果として、落ち着きのない、神経過敏な、集中力を欠いた状態をもたらす。それゆえ、もし注意欠陥多動性障害ADHD)のようなものが病理であるのなら、それは高度資本主義に特有の病理なのである―それはハイパーメディア化された消費文化の娯楽=管理回路に接続されていることの結果なのだ。

資本主義は、90年代のロックバンド「ニルヴァーナ」に代表される反体制の身振りや、「ストリートのリアル(つまり金儲けと弱肉強食の論理)」を訴えるヒップホップのような動きも楽々と飲み込んで、体制お墨付き商品へ変換し、一方では、国家予算並みの私的財産の一部を慈善活動に回すことで世界の改善に寄与しようとするビル・ゲイツジョージ・ソロスのような「リベラル共産主義者」たちさえも生み出した。

資本主義下における巧妙で洗練された労働管理のストレス(労働者は夢の中まで仕事によって侵食され、それはやがて逃避的な記憶障害をもたらす)により、今までのどの社会形態よりも膨大な数の精神疾患(とりわけ鬱病。著者自身鬱に苦しんでいた)の被害者が生まれているにも関わらず、社会制度への根源的疑問はスルーされ、患者の問題は脳内物質の問題へと矮小化され、自己責任の名の下に、製薬会社の最大限の利益に従って処理される。

資本主義の正体不明の強靭さは、それが「中心を持たない」ことにあると著者は言う。反対者たちが陥りがちな「政府や巨大資本による陰謀論」という分かりやすい図式では資本主義リアリズムの本質を捉えられないことにはすでに多くの人々が気づいている。

資本主義社会における「中心の不在」を最も直接体験できるのは、「コールセンター」(消費者による苦情相談窓口)だろう。消費者は、一方では何の支障もなくサービスの提供を受けているように見えるが、その裏側にはまったく別の現実(コールセンターという正気を失うようなカフカ的迷宮)が存在している。PR音楽の甲高い音によって断続的に遮られる倦怠感ともどかしさ、訓練も知識も不足している何人ものテレオペレーターに同じ不快な情報を何度も伝えることの繰り返し、しかるべき対象が存在しない故に無力なまま募る怒り。電話をかけてみればすぐ分かるように、答えを知っている者は誰もいないし、もし知っていたとしても何かをやってくれる者は誰もいないのだ。消費者たちの怒りには真っ当な対象がないために、影響力を持つこともない。このような状況のもたらす不安はカフカの『城』という作品に不気味なほど鮮やかに予言されている(カフカ全体主義ファシズムの不安を予言したと評価されるが、むしろ現代の後期資本主義の状況の方がはるかにカフカ的といえる)。「コールセンター」の従業員との会話の多くは、ダダ的ナンセンスに感じられる。それは、やがては物事がスムーズに働くように見える反対側の現実へ戻れるという希望さえも失ってしまう場所なのだ。この無反応そして非人格的な、中心不在の抽象的かつ断片化されたシステムの経験において、人は資本の人工的な愚かさを直視するのに最も近い場所にいる。

資本主義が唯一の継続可能な制度とは全くかけ離れているばかりか、実は人間を取り巻く環境全体を破壊する性質を備えていることを最も端的に示すのが、エコロジー運動の最大の意義と言ってよい。しかしここにも落とし穴がある。たとえば、環境破壊を食い止めるための「リサイクル運動」に異議を唱える人はいない。それはイデオロギー以前の社会的責務とすら仮定されている。「誰も」がリサイクルすることを期待されている。政治的信念の如何を問わず、この要請に逆らえる者は誰もいない。しかし、リサイクルが「みんなの」責務とされることにより、資本主義の構造はその責任を消費者に委ねながら、自らは見えない所へ消えてゆく。誰もが、そう、「各個人」が気候変動に責任があり、それを軽減するために各々が少しずつ貢献していけばいい、という一見正論に思えるレトリックによって、本質的にそれは誰の責任でも「ない」というもう一つの現実が覆い隠される。すなわち、環境破壊の諸原因は非人称的な「構造」なのであり、それは個人が主体として責務を果たしていけるようなものでは決してないのだという事実が、資本主義リアリズムの中では非可視化されていく。

では、出口はどこにあるのだろうか?

資本主義リアリズムは、「現実とはこうでしかありえないのだ」という解釈を、あらゆる社会構成員に、あらゆる場面、あらゆる方法で突き付けて見せる。しかし、資本主義が提示する「現実」は、実はリアルを覆い隠すものでしかないと、著者は哲学者ラカンを引用しながら語る。

ラカンにとってリアルとは、あらゆる『現実』が抑圧しなければならないものであり、まさにこの抑圧によってこそ、現実は構成されるのだ。リアルとは、目に見える現実の裂け目や、そのつじつまの合わないところのみに垣間見ることのできる、表象不可能なXであり、トラウマ的な空洞だ。だから資本主義リアリズムに対抗する上で可能な戦略のひとつは、資本主義が私たちに提示する現実の下部にある、このようなリアル(たち)を暴き出すことであろう。」(p.53)

「資本主義リアリズムを揺るがすことができる唯一の方法は、それを一種の矛盾を孕む擁護不可能なものとして示すこと、つまり、資本主義における見せかけの『現実主義(リアリズム)』が実はそれほど現実的ではないということを明らかにすることだ。」(p.49)

我々が唯一の持続可能な現実であると思い込まされている単層的な構造の裂け目を見出し、垣間見ること、あるいはそれにヒビを入れ、裂け目を創ること。その実践の中にのみ資本主義リアリズムを超える希望を見出すことができるだろう。

「歴史の終わりというこの長くて暗い闇の時代を、絶好のチャンスとして捉えなければならない。資本主義リアリズムの蔓延、まさしくこの圧迫的な状況が意味するのは、それとは異なる政治的・経済的な可能性へのかすかな希望でさえも、不相応に大きな影響力を持ちえるということだ。ほんのわずかな出来事でも、資本主義リアリズム下で可能性の地平を形成してきた反動主義の灰色のカーテンに裂け目を開くことができる。どうにもならないと思われた状況からこそ、突然に、あらゆることが再び可能になる。」(p.199)

このメッセージを発した後、2017年1月に、著者は48歳の若さで自らの生命を絶った。遺された彼のメッセージを受け継ぎ、「灰色のカーテンに裂け目を開く」ことで資本主義リアリズムに抗う道を選ぶか、それとも「諦めの常態化」への服従の道を選ぶのか。その問いに答えることが今の私たちに求められている。

参考文献:
『資本主義リアリズム』(マーク・フィシャー著、訳セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉、堀之内出版)
ユリイカ』2014年7月号(青土社
『時間かせぎの資本主義 いつまで危機を先送りできるか』(W・シュトレーク、鈴木直訳、みすず書房
GAFA 四騎士が創り変えた世界』(スコット・ギャロウェイ、渡会圭子訳、東洋経済
『それでも人生にイエスと言う』(V・E・フランクル、山田邦男、松田美佳訳、春秋社)