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こま子の夜明け前

『島崎こま子の「夜明け前」―エロス愛・狂・革命』(梅本浩志著、社会評論社、2003年)という本を読む。

こま子との愛を断った藤村は、『夜明け前』の執筆へと向かう。別れたこま子は京大社研の学生たちに連帯して革命と抵抗世界へと突き進む。野間宏の描いた「京大ケルン」の悲劇的世界が、その先に展開した。知られざる資料や書簡を駆使して描いた近代日本暗黒の裏面史。

という内容だが、左翼系ライターが書いただけあって、京都で共産主義運動の弾圧への救援活動に献身したこま子の遍歴がよく調べられている。

それより今回この本を読むまで知らなかったのだが、こま子は「新生」の最後に台湾に行くことになっているが、1年くらいで日本に戻り、そのあと何度か藤村に会っている。そこでみたび「焼けぼっくりに火がついて」いたという。

この様子は、「明日」と「樹木の言葉」という小説にほとんど事実のまま描かれている、とこま子自身が語っている。

だが二度目の時とはちがって、藤村の心はもうこま子から離れていた。上野の不忍池で会い、藤村はこま子と「長いことくちびるを合わせて」から「こま子さん、用はこれっきり? 僕は今いそがしい―」と口にして、こま子を「一息に深い淵の底へ突き落された」ような気持ちにさせた。

この時以降、二人が再び会うことはなかった。

こま子が自由学園で働くようになったのは、藤村が元教え子の羽仁もと子に世話を頼んだからで、こま子がそこを飛び出して京都の学生寮で働くようになったのは、藤村の息のかかった羽仁もと子の偽善性に我慢がならなかったからだという。

こま子は京大生たちとの交流を通じて左翼活動のシンパになり、学生の一人、長谷川博に求婚され結婚し、紅子という子供をもうけた。長谷川は治安維持法違反で何度も逮捕拘留され、彼の浮気のせいもあってこま子と離婚したが、戦後になってもこま子と娘への援助は続けたという。

こま子は特高警察につけ狙われ、何度も逮捕され、一生心身に傷の残る拷問を受けたが、人気作家島崎藤村との関係から、世論を慮った当局に拷問で虐殺されるには至らなかった。

有名な、一九三七年に窮乏して養育院に保護されたこま子について島崎家に知らせたのは、彼女の身辺に常につきまとっていた特高だったという。特高は新聞記者にもリークして、こま子の現状が大々的に報道された。

これらの報道と、何よりもこま子自身が「婦人公論」に発表した手記が、藤村に致命的なダメージを与えたという。

その頃の藤村は畢生の大作「夜明け前」を書き上げ、日本ペンクラブの会長になるなど、作家としての絶頂にあった。だがその藤村は、こま子の手記によって「深い淵の底に」突き落とされたのであった。

だが藤村が陥った心身の不調のおかげで、あからさまに政府から戦争協力に利用されることはなくなり、作家としての評価に致命的な傷がつくことを免れた面もあるという。

昭和一八年に藤村は死んだ。こま子は戦後、長野県の実家の村で若者たちに左翼文献を貸し与えるなどして共産党の再建に貢献したが、積極的な活動はせず、習字を教えたりして穏やかに過ごしていたという。

娘と二人で東京で暮らすようになるが、しばしば何者かに付け狙われているという妄想幻覚に陥ることがあった。これは島崎家の血でもある精神病の影響とも考えられるが、やはり戦前の特高による偵察逮捕拷問のトラウマの直接的影響だろうという。

一九七九年六月二九日、島崎こま子は東京・中野の浄風園病院でだれにも看取られずに静かに息を引き取った。前日見舞った娘の紅子も臨終に立ちえあぬ急な死であった。