INSTANT KARMA

We All Shine On

IUT!IUT!(Are You Tea?)

暑すぎる。明らかに異常な事態が全世界的に進行しているのに、「厳しい暑さが続きますネ(微笑)」などと平然とにこやかにお伝えしているニュースや天気予報を見ているとなんだかサイコホラーを見ているような気分になる。

 

Twitter(X)の仕様が強引なロゴの変更に始まり、ブロック機能の廃止、ニュースサイトの表示を省略してサブスクに誘導するなど、利用者にとっては何のメリットもない改悪に突き進んでいる。公共プラットフォームが一民間企業(の一人の経営者)の手に委ねられていることの必然的帰結がここにある。

SNSなんてものは麻薬と同じだからなくしてしまった方がいいのだが、たぶんそうはならないで、情報操作のツールとして大衆洗脳装置のような形で残るのだろう。ミシェル・ウェルベックの予言通り、コロナによって世の中は以前より悪くなった。正確に言えば、ウェルベックは「少し」悪くなると言っていたのだが、実際には「大幅に」悪くなった。

 

IUT(宇宙際タイヒミューラー理論)望月新一教授は、

「マクロの世界がどんどん悪化しているのに対してミクロ(個人)としては非常に魅力ある人材が出てきているという現象」

について、2017年5月6日付けのブログの中で、ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の例を挙げて考察している。

今の時代の日本の社会を見渡すと、みんな「身を粉にして」せっせと働いているのに、全体的に余り豊かさを実感できない状況の下で生活している、というような趣旨の「暗い」報道(=「ブラック企業」や過労死から結婚・出生率の低下、待機児童の問題、子供の貧困、若者の就職難等)が非常に多いように感じます。一方、そのような「俯瞰的な」、「マクロ」の視点ではなく、個人個人の「ミクロ」のレベルで社会(=特に自分の普段の生活の中で接する人間)を観察していると、(場合によっては)逆にこの国の人的資源の豊かさに寧ろ感動するような場面がしばしばあるのは私だけではないのではないでしょうか。そうすると、この「マクロ対ミクロ」の落差は一体どのような原因によってこれほども激しい形で発生してしまうのだろうか、解明したくなります。

では、この「マクロ対ミクロ落差」はどのようにして発生しているかということについて突き詰めて考えると、

個人が学校や就職先、公的機関等で、(多くの場合、不適切に)画一的な基準・物差しによるマクロ的・社会的評価

を受けて人生が大きく左右される場面に晒されながら生きていかなければならない立場にあることが基本的な原因ではないでしょうか。とすると、このようなマクロ的・社会的評価の際に適用される基準・物差しの内容にポイントがあるということになります。つまり、ドラマ「逃げ恥」の大きなメッセージの一つは、みくりを筆頭に、様々な境遇に置かれている登場人物たちに代表されるような事例では、

実態からして極めて不適切な基準が適用されていることによって社会は多くの貴重な人材、ひいては貴重な「富」をいわば「溝に捨てている」ぞ!

という内容のものではないでしょうか。

社会が、個人の尊さや資質の実態と乖離した、不適切に「狭い」基準・物差しに拘ることによって、逆に社会全体にとっての大きな損失や様々な形の「貧困」を生じているという構図を考えると、近年多発している高齢運転者による交通事故の原因の一つとして(認知症と共に)指摘される視野狭窄を想起させられます。つまり、社会が、数々の場面においていわば深刻な「視野狭窄」を起こすことによって(社会全体にとって)悲惨な「自損事故」を多発しているということです。

ドラマ「逃げ恥」と私の研究=IUTeich(宇宙際タイヒミューラー理論)との、興味深い接点・類似点について解説してみたいと思います:

まず、上述の「マクロ対ミクロ落差」ですが、これは言い換えれば、「個人」対「社会=集団=群れ」という数学的な構造問題と見ることができます。このように考えると、IUTeichに出てくる『「単解的構造」対「正則構造」』の'緊張関係'に対応していることになります。このような側面については2017-01-06付けの記事で詳しく解説していますのでご参照下さい。

上述の議論では言及しなかった側面ですが、「逃げ恥」では、少なくともみくりと平匡の場合の「マクロ対ミクロ落差」問題に対する「突破口」として浮上するのは契約結婚という形の対応であり、このような「突破口」を採用することによって発生する様々な結果への対処が正にドラマのストーリー展開の基本ともいえます。このように、難しい問題に対して、最初から完璧な「模範解答=満額回答」を求めずに、寧ろ、一種の

「仮想的な満額回答」を勝手に宣言し設定した上で、その「仮想的な満額回答」によって生じる「歪み・不具合・誤差」を計算する

という筋書きは正にIUTeichにおける「Θリンク」(=「仮想的な満額回答」)と、そのΘリンクによって生じる「歪み・不具合・誤差」を、アルゴリズムによる明示的記述を用いることによって計算するという展開とそっくり(!)です。つまり、標語的なレベルで整理すると、

契約結婚」=「仮想的満額回答の設定」=「Θリンク」

といった寸法になります。IUTeichのこのような側面についても2017-01-06付けの記事で詳しく解説していますのでご参照下さい。

ここで言及されている2017-01-06付けの記事では、紅白歌合戦に出場していた欅坂46サイレント・マジョリティという曲を見ての望月教授の考察が綴られている。

一般に、個人がどの程度「社会の主流=群れ」について行くべきで、どの程度「わが道を行く」べきか、つまり、この二種類の方針の「緊張関係」や「最適なバランス」というのはある意味、人類社会の「永遠の課題」とも言えますが、宇宙際タイヒミューラー理論(=「IUTeich」)の数学的内容の重要な部分に対応しているとも言えます。「群れについて行く」ことはIUTeichでは、

 「(数論的)正則構造」

と呼ばれるものに対応していて、それぞれが「わが道を行く」という状況はIUTeichでは、

 「単解的構造」

と呼ばれるものに対応しています。歌詞の

 「誰かの後について行けば傷つかない」、
 「その群れが総意だと、ひとまとめにされる」

という部分は、IUTeichの中で(数論的)正則構造が有効な(=「傷つかない」!)部分、つまり、「ホッジ劇場」と呼ばれる構造の内部に対応していて、この歌詞に合わせた、メンバー全員が腕を回転させる動きは、ホッジ劇場の内部において群(=「群れ」!)が働くことによって成立する対称性に対応していると見ることができます。一方、

 「君は君らしく生きて行く自由があるんだ」、
 「大人たちに支配されるな」

という歌詞は、IUTeichの中で正則構造から決定的に離脱する部分、つまり、「Θリンク」と呼ばれる部分に対応していると見ることができます。ちょうどこの歌詞のところで、センターの平手友梨奈さんだけが拳を挙げる仕草をするわけですが、その拳を挙げる仕草の形状は(数学用語でいうと)デルタ関数(=一種の「デル杭」!)=「ガウス分布」によく似ていて、「ガウス分布」は正に「Θリンク」そのものといってもよいものです。また、

 「選べることが大事なんだ」、
 「人に任せるな」、
 「行動しなければNoと伝わらない」

という歌詞は、その正則構造から離脱する際、肝心な数学的構造は常識的なスキーム論(='人')任せにするのではなく、遠アーベル幾何やIUTeichで用いられるようなアルゴリズムとして明示的に記述するという'行動'を実行しないと、その肝心な数学的構造はΘリンクの向こう側には通用しない(='伝わらない')という状況に対応していると見ることができます。一方、歌詞に登場する「自由」や「夢」はIUTeichの最終的な帰結である不等式(=いわゆるABC予想やシュピロ予想の不等式)に対応していると見ることができますが、それを

 「あきらめてしまったら、僕らは何のために生まれたのか」

という歌詞は、IUTeichを勉強する上において肝心なポイントである、

「何でその'夢の不等式'が従うか分からなくなったときは、そもそも何のためにΘリンクを定義したのか、改めて思い出すべきである」

という状況に見事に対応しているように思います。また

 「列を乱すなとルールを説くけど、その目は死んでいる」
 「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」、
 「誰もいない道を進むんだ」、

という歌詞は、

「'夢の不等式'を導くには正則構造(='列')を('乱して')放棄し、通常のスキーム論的数論幾何の常識(='ルール')が通用しない単解的な道を進むしかない」

というIUTeichの状況に(これまた見事に!)対応していると見ることができます。

IUT理論についての知識がなければ何を言っているのかさっぱりワケワカメではあるが、望月教授の言わんとしていることは何とはなしに漠然と伝わる気がするような気がしないだろうか。

 

望月教授は、加藤文元教授の解説書「宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃」 (角川ソフィア文庫)の「刊行によせて」という文章の中で、IUT理論について、

足し算と掛け算の「本来の固い関係」を解体して、「ゆるゆる」な状態にして復元するもの

と述べている。

数学者が自らの理論をここまでくだけた言葉で説明してしまうことにまず感心するが、IUT理論が内包する思想(それが何なのかは東浩紀のような哲学者が明らかにしてほしい)はまさに現在の行き詰った社会を突破していくための処方箋となりうるのではないか、との予感を持つ人々が増えていくのではないか、という気がしないでもない。

 

「正則構造」(「社会=集団=群れ」)が明らかに狂っているとき、ひとりひとりの個人(「単解的構造」)はどう振舞うべきなのか?

 

「'夢の不等式'を導くには正則構造(='列')を('乱して')放棄し、通常のスキーム論的数論幾何の常識(='ルール')が通用しない単解的な道を進むしかない」

 

「仮想的な満額回答」を勝手に宣言し設定した上で、その「仮想的な満額回答」によって生じる「歪み・不具合・誤差」を計算する

 

ここからどのような解が導き出せるのか?

 

答えは「ゆるゆる」にあるとみた。