INSTANT KARMA

We All Shine On

『横山やすし』(データハウス、1986年)

コンプラが厳しくなって過激なことを書きにくくなる一方の時流に抗う手段の一つとして、例えば吉田豪が用いているのは、

「他人の発言を評するというかたちで過激な発言を引用する」

というテクニックである。

その手法が最大限に効果を発揮しているものの一つに、横山やすしの対談集横山やすし』(データハウス、1986年)を論じた文章がある(「続々聞き出す力」所収)。 

この本は、『週刊宝石』連載の「激情ムキ出し対談」をまとめたものだが、表紙にもどこにも対談集だという説明すらなく、個人名がそのままタイトルになっていて、この時点でヤバいのだが、中身はそれどころではない過激さである。

吉田豪のインタビュアーとしてのモットーは、「インタビューは格闘技ではなく、緊張感のあるプロレスである」というもので、このことを吉田は度々公言している。

しかし、この本は、吉田のスタイルとは正反対に、格闘技的に相手をひたすら潰しに行く、とんでもない対談集であると吉田は紹介する。

たとえば、政治学者・小室直樹をゲストに招いた回。今思えば、美濃部都政のブレーンとして知られ、社会学者として副島隆彦や橋本大三郎や宮台真司の師匠でもある小室直樹横山やすしの対談相手になるというだけでもけっこうすごいことだと思うのだが、この第一声がいきなり、

「こんどおたくが書いた『ソビエト帝国の最期』という本、まだ目次のとこしか見てまへんのやけど、ワシの想像するところ、おたく、おそらく堅い方やと思うんです。ほいで、思想的には自分と同じやと思うんです」

というやすしの失礼な一言で始まるのだ。

目次しか読んでないくせに

「俺も、ものすごくソ連は好きやないし、ひきょうな国やし(略)俺はいつも思うんやけど、もう一回徴兵制度をとってね(略)それこそ軍隊に引き込んで、シベリアで戦わせればいい」

と過激な持論を述べるやすしに、小室直樹も、

「そういうこと、そういうこと」

と相槌を打っているのだ。

「それで、女子大生はな、全員慰安婦になったらええねん」

という、今なら伏字になりかねないようなやすしの意見にも、

「そう、そのとおり! どうせ、あの連中は、やりたくて、やりたくてバタバタしているんだから」

などと調子を合わせて、すっかり意気投合したと思わせるや否や、ここでやすしが仕掛ける。

「そら、そうや。しかし、あのな、センセ。おたくの話はようわかりまっせ。わかるけどもね、落ち着いた顔してるくせに、なんでそんなふうに頭のてっぺんから声出まんのや、えっ。これ、おかしいやないか!それやったら、聞くところも聞かれへんで」  

なんと、「ゲストの声の高さ」という予想の斜め上からのダメ出しを放つ。

さらに、当時五十二歳独身で、

「女の自動販売機ができればいい」

「俺、ソ連へ攻めて行って、これからはシベリアの女とセックスしようと思うんだ」

「このごろは、セックス産業は、ひじょうにまじめなバイトになっている」

などと言い続ける小室に、娘を持つ父親として、”やっさん”はついに

「なにがまじめかいな!」 「パンパンやないけ!」  

とキレる。以下の言い合いはもはや対談ではなくただの罵倒合戦である。

「あんたは、いったいなにやねん? 大学教授か、軍事評論家かなにやねん、いったい。本職はなにやねん、言うてみい!」( 横山)

「本職はルンペン」 (小室)

「なんじゃ、アホ!  ルンペンとは話できんわ、ドアホ!アホ!」(横山)

【 大幅に省略】

「 なんでルンペン、ルンペンて怒るんだよ。ルンペンがいたっていいじゃないか!」( 小室)

「いや、おってもええけどもな、同じ右なら右、左なら左の思想家としてものを言ったときに、俺はもちろん右のほうやから、たとえば左のほうを殺しに行くまえに、あんたみたいなしょうもない 同じ右のヤツを、ズドーンといって、それから敵を殺しに 行くわな」(横山)

「(胸を出して)殺すなら、殺してもらおうじゃないか」(小室)

「とにかくつまらん。そういう考えは絶対につまらん。これ以上、あんたとは話しとうない。はよう帰れ!」(横山)

「無礼者! それがゲストに対する言葉か」(小室)

「ほな、ワシが帰ったるわ。対談は終わりや(と言って席を立つ)」(横山)

このバトル対談について吉田は、

やっさんは聞き手として問題あるだろうけど、おかげで小室直樹のアレな部分を引き出すことにも成功したわけで、これはこれである種の才能なのだ

と評価を下している。

同書に載っている愛人バンク・筒見待子との、

「もうええから帰れ!」

「いずれ、潰したるから」

「ワシは、おまえみたいな女を潰すのが趣味やからな。対談は終わりや。帰れ」

という宣戦布告で終わるインタビューも、読む分には面白いと評価する。

昭和の完全にアウトな発言をこうした形で令和の世に引きずり出す吉田豪の〈芸〉が、この先もどこまで通用するのか、これからも外野から静かに見守っていきたい。

さこうじゅを樹木の名前だと思っていた

義母が中等度のアルツハイマー症と診断された。数年前から認知が覚束なくなってきているという自覚はあったようだし、傍から見ていてもそうだったのだが、コロナ禍で人と接する機会がなくなり進行が早まったものと思われる。つい先月、四回目のワクチン接種のために妻が実家に行って付き添った際にはまだ朝食も普通に作れたのが、今月に行ってみると、炊飯器のご飯が古くなっていたり同じ食材を買い溜めしたのが冷蔵庫に大量に入っていたりと、これまでには考えられない明らかに異常な兆候が見られたので、病院で正式な診断を受けた次第。医者からはもう独居は難しいと言われたという。

義母は、我々が結婚した年に亡くなった義父がいなくなってからもう二十年以上独居を続けていた。当初は友達と山登りに行ったり海外旅行に行ったり、結核手術後に数十年間自宅療養を続けていた義父の看護から解放されたかのように伸び伸びと暮らしていた。様子がだんだん心配になりだしたのは、毎日のように泳ぎに行っていた近所のスポーツセンターが閉鎖された5,6年前くらいからだろうか。今度のコロナ禍のために2年くらいは実家とこっちとの移動もできなくなって、久しぶりに来た時にはかなり道に迷ったと言っていたから、その頃にはすでに始まっていたと思う。

介護認定の結果が出るのが1,2か月後で(たぶん要介護1か2のどちらかになりそう)、デイサービスや訪問診療などの介護を受けながら施設入所(特養)につなげるまでの間が大変になりそうだ。

義母のことは妻が中心になって動くしかないが、こちらの母親も、父が二年前に亡くなり、独居もそろそろ限界になってきている。こちらの家で一緒に暮らすことは物理的にも無理なので、独立して動ける今のうちに〈サコウジュ〉に入りたいというのが本人の希望のようだ。この週末にその辺の話をしに実家に行ってくる。

夫婦とも一人っ子なので介護問題が一度に押し寄せるとどうにもならなくなる。

どうにかこうにか乗り越えていくしかない。

「東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン」

「東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン」を読んでの感想の続き。

感想というよりはメモ、個人的な備忘録のようなもの。

 

オカンが亡くなった後、ボクはそれまで訊ねることもなく、オカンも決して口にすることのなかった話をオトンから聞くことになる。

「どうして、別居することになったん?」

「ああ・・・」

「女なん?」

「いや違う・・・。ばあちゃんなんや・・・」

「小倉のばあちゃん・・・?」

「ばあさんとオカンが合わんやった。いっつもばあさんが文句を言いよった。たまらんごとなったお母さんが小倉の家やのうで、お父さんとお母さんとオマエと三人で住めんのやろうかって言い出したんよ。お父さんもまだ若いでから気が短かったもんやけんのお。そんなん言うなら、オマエが出て行けって言うてしもうたんや・・・」

ボクは、子どもの頃、小倉のばあちゃんの家で、会うたびに何度も同じことを聞かれたのを覚えている。

「一番好きなのは誰ね?」

ボクは毎回、同じことを答えた。

「ママ」

「その次に好きな人は誰ね?」

「小倉のおばあちゃん」

そうね、そうねとばあちゃんは言う。何番目まで聞かれてもオトンの名前は言わなかった。それは別にオトンが嫌いだったというわけではなく、なんとなく、この場ではオトンの名前を出さない方がいいのだろうなと、子供心に思っていたからだ。

ある夏の昼間、ばあちゃんの他に、もうひとり誰かがいるとき、ばあちゃんはまた同じ質問をした。

「一番好きな人は誰ね?」

「ママ」

しばらくして、ばあちゃんは、もうひとりの誰かと小声でなにか話をしていた。そして、ボクを横目で見ながら、憐れんだような声でこう言った。

「生みの親より、育ての親って、言うけんねえ・・・」

それが聞こえた時、その時はどういう意味なのか、わからなかったけれど、なにか嫌なことを言われているな、ということは、すぐにわかった。

高校受験の時、必要書類の中にボクの興味を強く引き付ける文字があった。

「戸籍謄本」

そこに書かれていたことは、どう判断すればいいのか分からず、もう、その後からは気にすることも少なくなった。

たとえ、オカンがボクの生みの親ではなく、どこかに本当のお母さんと言われる生母がいたとしても、ボクにとっての母親はオカンひとりなのだから。

オカンが死んだとき、”オカンが死んだら開けてください”と書かれた粗末な紙箱の中に、ぽち袋のような小さな袋があった。

「御玉緒 小倉記念病院 中川ベビー殿 昭和三十八年十一月四日御誕生」

と書かれ、その中には粉末の分包のように折り畳んだ紙が入っていて、開けてみるとそこにはかさかさになった”へその緒”が入っていた。

オカンは、ボクが中学とか高校を卒業する節目で何回か、離婚していいかとボクに訊ねた。ボクは、そのたびにいいよって言ったのに、オカンは結局、死ぬまでオトンが判をついた離婚届を出さなかった。

 

ボクは、「オトンによく似ている」と言われるのが嫌だった。オトンの知り合いの水商売の人は、とにかくオトンとボクがそっくりということにしたがるようだった。

 

でも、赤ん坊の著者を抱いたオカンの写真を見ると、リリー・フランキーは、オカンによく似ていると思う。特に目元がそっくり。

 

最も危険な遊戯

やまだかつてない台風が近づく中、吉田豪年譜(備忘録)更新のため関連本を読む。

「聞き出す力」「続聞き出す力」「続々聞き出す力」はインタビュアーを志す者にとってバイブルといってよい名著。

残念ながら、この三部作の最終巻「続々聞き出す力」だけは電子書籍のみの販売となっている。せめてこの本の元になった「週刊漫画ゴラク」の連載分をすべて書籍化してほしい。

吉田は、自らの立ち位置を決定づけた存在の一人に、反面教師として景山民夫を挙げている。

吉田は十代の頃、景山民夫の軽妙な毒舌エッセイのファンで、根底に反原発のような硬派な面も併せ持つ彼の姿勢に共感していたが、小説家として認められた頃から景山の諧謔性は次第に失われ、障害を持つ娘を十八歳で亡くした後、幸福の科学に入信し、悲劇的な最期を遂げる。

この軌跡を目の当たりにした吉田は、景山民夫よりも、軽さと笑いを持ち続け、ふざけたスタンスで発信を続ける高田文夫に倣うべきと考えたという。

それは「冷笑するだけのサブカル」という立場とも違う。

単純な善悪二元論に依拠して<正義>のスタンスで他人に干渉する/されることを拒否することが、吉田の掲げる<サブカル>の矜持なのだ。

最も残酷な行為をなしうる者は、自らの正義に疑いを抱かない者であると歴史は示している。正義の暴走がバランスを失うとき、真に危険な社会が到来する。

だが残念ながら近時の世の中を見る限り、その傾向は強まる一方と言わざるを得ない。

吉田豪がふざけることを止め、正義のスタンスを取ったたときが、この世の終わりである。

Tokyo Tower ~My Mom and ME, sometimes my Dad~

リリー・フランキー「東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン」 (扶桑社)を読む。

著者の名前はもちろん知っていたし、この本がベストセラーであることも当然知っていたが、中身についてはまったく知らないで読んだ。この本のレビューにもまだ一切目を通していない。だから読了直後のまっさらな印象になる。

そら泣くわ、こんなもん。

こんなん書かれたら誰でも泣くやろ。

でも、あざといとか狡いとか全然感じないのは、著者が、母親をはじめとする家族や人々への思いを、まったく素直に正直に書いていると感じられるからだ。この本が多くの人々の心を打ったのは、著者の何の”構え”もない文体のためだと思った。

つまりこの著者は、自分のことや母親のことを殊更よく見せようとか美化しようとか、父親を貶めようとかいう余計な気持ちを捨てて、ただ自分の心を正直に見つめて、気負いなしに、他人の視線を過度に気にすることなく、まっすぐに記している。そこに書き手のエゴの無さを見る。これは決して容易なことではない。

僕は以前、志賀直哉の「和解」を読んだとき、こんなことを書いた。

長年激しく対立してきた父親との和解のプロセスを描いた『和解』という小説は、志賀直哉の最高の入門書だと思っているが、一見すると、それは小説というよりはただの公開日記のようにすら思われる(書評をインターネットで探していたら、誰かが志賀直哉の作品を「個人のブログで足りるようなもの」といって批判していた)。

だが、誰でも試しに、親子関係でも夫婦関係でも友人関係でもよいが、自分にとって最も切実な人間同士の関係を、これほど明瞭に描写できるかどうか自問してみることをお勧めする(文章の巧拙はどうでもよい)。

志賀の作品は決して内面の吐露や告白に終始するものではないから、「私小説」というのは誤解を招く。それは「私」を主人公にした一種の叙事詩のようなものだ。的確に描かれた叙事詩というものは、文章による無我表現の典型であるといってよい。なぜなら、そこには書き手の側に登場人物の誰かをありのままの姿より良く見せようとか貶めようとかいう自意識というものが完全に欠如しているからだ。

著者の文章は読みやすくはあるが、いわゆる文学的な香りを感じさせず、文体は芸術味を欠いていて、もちろん志賀直哉とは比べるべくもない。だが、自分にとって最も切実な人間同士の関係を、明瞭に描写するという点で、ひとつの客観的な表現たり得ている。

著者の人生は、家族関係についてやや複雑な面があるとはいえ、特別に際立ったドラマがあるわけではない。実際の著者自身はかなり特別な才能を持つ特殊な人物なのだが、そのような特別さを感じさせないエピソードの羅列と、その素朴ともいえる筆致ゆえに、世の中にはこういう家族を持ちこういう生活を送っている著者のような人は数多くいるだろうとなぜか思わせてしまう。

母に対する思いという万人が共感できる主題を、これほど巧みに細やかに描けば、読者の琴線に触れることは必然である。加えて必要以上の臭みを感じさせない平易な文体。ベストセラーとなり一世を風靡するような作品であることは十分納得できた。

ここから先は、ごく個人的な感想になる。

一言でいえばこれは”マザコン小説”だが、「全ての男性はマザコンである」という普遍的なテーゼが、自分自身にはピンと来ない(この小説に感動しないという意味ではない)。

自分に生まれつき情が欠けているのか、それとも他の要因があるのかは分からないが、自分にとって母親は未だにアンビバレントな(愛憎併せ持つ)存在であり、その<愛>の部分が深い実感として自覚できない。別に虐待されていたとかネグレクトだったということはではまったくない。普通の家庭(というのもよく分からないが)と同じように、あるいはそれ以上に母親の愛情を受けてきたし、”よく育ててもらった”と思っている。そのことには感謝の念しかない。しかし”マザコン”という感情が自分には理解できない。

自分にとっての”オカン”とは、ダウンタウンのコントに出てくる、あのうっとおしい、時には邪魔でさえある存在のままなのである。離れて暮らし、たまに会話すれば自分の愚痴を延々と押し付けてくる母親に対し、えなりかずきのような表情で優しい相槌を打ち続けることなど到底無理で、うんざりしながらぶっきら棒な対応しかすることできない。それも「仕方ねえなあ」という苦笑ではなく、心底鬱陶しいという思いしかそこにはないのだ。五十を過ぎてもなお反抗期がずっと続いているような今の状態は、逆に言えば未だに「親離れ」できていないことを示しているにすぎず、未熟な関係性といえるのかもしれない。

しかし母が本格的に弱って、惚けたり病気になったりすれば、そして死を迎えることになれば、この心境には変化が生じるのだろうか(もう年齢的にはいつそうなってもおかしくない)。

やはり、この著者のように、息子というものは父親から虐げられる母親の不幸な姿を見てマザコンになるのではないだろうか。自分がもし、ただ自分の心を正直に見つめて、気負いなしに、他人の視線を過度に気にすることなく、自分の母や父との関係をまっすぐに記すとすれば、どんな文章になるのだろうか。

そんなことを考えながら読んでいたのであった。

REVOLUTION PLUS ONE

youtu.be

一万五千歩、2724カロリー消費

レム睡眠1時間16分

浅い睡眠4時間5分

深い眠り1時間1分

目覚めていた時間1時間26分(断続的)

港区女子

中央線顔

日野愛

斎藤幸平「人新世の「資本論」 」杉作J太郎,吉田豪「Jさん&豪さんの世相を斬る! @ロフトプラスワンリリーフランキー「東京タワー」を並べて同時に読んでいる。


 

寒山拾得(備忘録)

寒山拾得(かんざんじっとく)の委しい評伝が読みたくなりネットを漁る。

寒山は、中国唐代(7世紀頃)、浙江省天台山に住んだ、修行者・禅僧であると言い伝えられ、その友人・拾得とともに、奇怪な風貌、常人離れした言動、奇瑞などにより、後世神聖化され多くの伝説・詩文・絵画を作り出してきた。ニタリと不気味に笑う寒山拾得のアルカイックスマイルが岸田劉生「麗子像」のモデルとなったことは有名である。

寒山は詩人でもあった。その作品集寒山子詩集』により、伝説に覆われ隠された、実像に迫ることができる。二人の事跡は閭丘胤(りょきゅういん)が書いた『寒山子詩集』の序文に最も詳しく述べられており、後の伝承・伝説・図画の起源となったとされる。

寒山子詩集』序

朝議大夫使持節台州諸軍事守刺史上柱国賜緋魚袋閭丘胤撰す

 

寒山とは一体、どこの何者やら。くわしくは誰も知りはしない。古老がその姿をまず見かけたらしい。以来、人々は貧乏だが風狂の士である、といっている。

天台の唐興県、西へ七十里のところに寒厳と呼ばれる地があった。寒山は普段ここに住んでいるのだが、時折国清寺へとやってくる。寺でまかない役を務める拾得という者は、いつも残飯や野菜くずを竹筒に貯えておき、寒山が来るとそれを持たせ、背負わせてやった。

寒山、ある時には廊下を悠々と歩みながら、叫んだり喚いたりし、独り言をいい、また独りで笑ったりしていた。寺僧が追いかけて罵り、打ちすえては、追い払おうとすると、立ちはだかって手を打ち鳴らす。そして呵呵大笑し、ようやく立ち去るという日々であった。

外見は乞食そのもの。痩せ衰えてはいるが、その一言一句が悉く道理にかなっているのだ。よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。樺の皮の冠をかぶり、ぼろぼろの衣服を着、大きな木沓で歩く。これは道に達した悟人が、真の姿を隠し人々を教化していたものと見える。

ある時には、長廊下で歌をうたいながら、ひたすら

「おうおう。世は三界輪廻なり」

という。またある時には村里に行き、牛飼いの童と共に、歌い笑い、喧嘩したりじゃれあったりして、本性そのままに楽しんでいる。哲理を極めた者でなければ、いかにその真意をはかり知ることができようか。

さてこの物語の語り手、閭丘は天台の丹丘(台州)の官吏となって赴任する途上、頭痛に悩まされていた。易者や医師に治療させたが、悪くなるばかりである。そこへ豊干(ぶかん)という禅師(実は寒山拾得の師)が、天台の国清寺から訪ねてきた。これへ治療を頼んだところ、禅師は莞爾と笑う。

「人の身体は四大元素が仮に和合してできておる。この調和を欠くと人は病気になる。病を除くには浄水が必要です」

といった。さっそく浄水を持ってこさせて、師に渡す。師がその浄水を吹きかけると、不思議なことに頭痛はかき消すように癒えてしまった。師は閭丘にいった。

台州というところは海島で、嵐毒がたちこめておる。健康にはくれぐれも気をつけられるよう」

「わたくしが台州で、師と仰ぐに足る賢者がおられましょうか」

「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。寒山文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」

と言い終わり、豊干は立ち去った。

閭丘は任地台州に赴いたが、豊干禅師の教えに従い、着任三日後に国清寺へ行く。寺僧に尋ねたところ、まさに師のいう通りであった。唐興県の役人に命じて、寒山と拾得の所在を調べさせたところ、県からは

「県境より西七十里の所に厳があります。その厳に貧者が住み、たびたび国清寺に行っては庫裡で止宿している、と古老の話です。また庫裡には、拾得という名の行者がおります」

という報告があがる。

これは礼拝せずばなるまい、と国清寺に着き、寺僧に

「当寺に豊干禅師が居たと聞くが、その住院は何処か。そして拾得と寒山は今どこに居るのか」

と尋ねた。僧の道翹(どうぎょう)が応対し、

豊干禅師の院は経蔵の後にございます。が、今は誰も住んでいません。時折一頭の虎がそこに現れて吼えるだけです。寒山と拾得の二人は現在厨におります」

と教えてくれた。閭丘は僧の案内により、豊干禅師の院に行って部屋を開けて見た。が、そこには虎の足跡が残るだけであった。道翹に尋ねる。

「禅師はここでは何をしていたか」

「豊干はここに居た頃は、米をついて大衆に供養しておりまして、夜には歌をうたったり独りで楽しくやっておったようです」

と答えた。次に厨へ行くと、竈の前で二人の者が火にあたって大笑している。

閭丘が進み出て礼拝すると、二人は声を合わせ閭丘を大喝し、また互いに手を取り合って呵呵大笑した。

「豊干のおしゃべりめ。阿弥陀にさえわからぬに、われらを礼拝して何になる」

 とわめきたてた。僧共は驚いて駆け集まり

「郡の代官が、かような乞食どもに、なにゆえ礼拝などなされるのか」

と大いに不審がった。その隙に寒山と拾得は手を取り合って、寺から出て行ってしまった。後を追わせたが、いっさんに逃げ走る。そしてついに寒厳に帰ってしまったので、閭丘は

「あのお二方は国清寺に戻るであろうか」

と尋ねた。そして部屋を用意し、寺に呼び返して住まわせようとしたのである。

閭丘はひとまず郡の役所に引き上げ、浄衣二揃えと香や薬などを調え、特に供養として送り届けたが、あれ以来二人は寺に帰ってこぬという。そこで、使者を立て寒厳へと供物を持って行かせたところ、ようやく寒山に会えた。閭丘らを見ると寒山はあらん限りの声で

「賊め。賊め」

と叫んで、厳の穴にもぐりこむ。

「汝らみなに言い置く。各々存分に努むべし」

という声とともに姿が見えなくなった。穴は自然に閉じ合わさってしまい、もはや追うすべもない。拾得の所在は、杳として知れぬ。

後日、道翹に寒山の跡を調べさせたところ、竹・木・石・壁などに詩を書きつけ、また村の人家の壁の上にも詩文を書き散らしていた。これら合わせて三百余首。加えて拾得が土地堂の壁の上に書いた偈文などもあったので、取り集めてこの一巻と為した。仏の教えに深く心を寄せれば、幸い達道の人ともめぐり合えるのであろうか。

水野聡訳『寒山子詩集 序』(能文社、2009)

中国はもとより、日本においても寒山拾得風狂にして奇怪、禅味あふれる風貌は、多くの画家の創作意欲を刺激してきた。著名な禅画「十牛図」とならんで、寒山拾得を描いた作品はすこぶる多く、しかもきわめつけの名画が多い。

絵画では上に挙げた岸田劉生の麗子画「野童女」(1922)が顔輝の寒山拾得図をモデルとしたものとされ、文学でも、森鴎外の小説『寒山拾得』、坪内逍遥の舞踊劇『寒山拾得』、芥川龍之介のエッセイ『寒山拾得』、良寛の詩『寒山拾得』などがある。

「詩集序」にあるように、中国では寒山文殊菩薩、拾得を普賢菩薩豊干禅師を釈迦如来と見立て、それぞれ三尊の示現として、「三隠」または「三聖」と呼び、崇敬している。

寒山の生い立ちは、『寒山子詩集』収録の詩の中で語られている。

父母の続経多く 田園他を羨まず
婦は機を揺(うご)かして軋軋(あつあつ)たり 児は口を弄びてかかたり
手を拍ちて花の舞を催し 頤をささえて鳥の歌を聴く
誰か当に来たって歎賀するや 樵客しばしば経過す

(鑑賞)
父母の家産は多く、他人の田畑を羨むこともない
妻はかたこと機を織り 子はわあわあ騒いでいる
木の下で手を打っては花びらを落とし 口を大きく開けては鳥の鳴くまねをしている
さてこの暮らし、誰がめでたいなどと思うだろうか やがて皆死に絶えここも廃墟となって木こりが通るだけの土地となるというのに

(読み下し文)久須本文雄『座右 寒山拾得』(講談社、1995)
(鑑賞)水野聡訳『寒山子詩集 序』(能文社、2009)以下同じ

小小より経を帯びて鋤き 本と兄と共に居(す)む
他の輩の責むるに遭うに縁(よ)り 剰(あま)つさえ自妻に疎んぜらる
紅塵の境を放絶し 常に遊んで書を閲するを好む
誰か能く斗水を借して 轍中の魚を活取せん

(鑑賞)
若い頃から畑仕事の合間に読書をしながら、兄といっしょに住んでいた
しかしある時ある者に非難を受け、わが妻にさえ疎んぜられるようになってしまった
そこで塵にまみれた俗世間と訣別し、放浪をしながら読書の世界に没頭している
車の轍の中でもわずかな水さえあれば魚は生きている 私にもわずかな支えを与えてくれる人はいないものか

書判全く弱(おと)れるに非ざるに 身の官を得ざることを嫌(うたご)う
銓曹(せんそう)に拗折せられ 垢を洗って瘡瘢(そうはん)をもとめらる
必ず也天命に関わるも 今年更に試み看よ
盲児雀の目を射るに 偶たま中るも亦た難きに非ず

(鑑賞)
書も文もはなはだ劣るとは思われぬに なぜ官位に就けないのであろうか
試験官に執拗に追究を受け、毛を吹いて瑕を求められるゆえだ
天命には背きえないが 今年こそ、とさらに試みるべきであろう
盲人が見事雀の目を射抜くように まぐれ当たりが起こらぬとはまだ決まったわけではない

寒山は裕福な農家の出身で、若い頃は兄と共に田を耕したり、読書したりして過ごすが、やがて結婚して子をもうけ幸せな家庭を築いた。

しかし、ある事件により、他人に非難され、あまつさえわが妻にも冷視されることに。いたたまれず、寒山は家を捨て、放浪の身となる。

家を出た真実の理由は、科挙に合格し、文官を目指すためであった。若き野心と情熱を実社会で花開かせようとしたのだ。

しかし科挙には合格できず、志も潰え、失望して寒厳に隠棲するに至る。

山で修行するうちに、禅仏教に傾倒していき、それまで興味をもっていた道教の思想を捨て、詩禅一味の深い境地に没頭していき、悟道の隠士と呼ばれるようになったのである。

ドロップアウトして実社会での立身出世を捨てた末に霊性の道に目覚めるという、いわゆるひとつの求道者の典型的な姿がそこにある。

今の自分は晩年の寒山拾得の自由自在・融通無碍の境地に憧れる。

寒山拾得

芥川龍之介

 

 久しぶりに漱石先生の所へ行つたら、先生は書斎のまん中に坐つて、腕組みをしながら、何か考えていた。「先生、どうしました」と云うと「今、護国寺の三門で、運慶が仁王を刻んでいるのを見て来た所だよ」と云う返事があつた。この忙しい世の中に、運慶なんぞどうでもいいと思つたから、浮かない先生をつかまえて、トルストイとか、ドストエフスキーとか云う名前のはいる、難しい議論を少しやつた。それから先生の所を出て、元の江戸川の終点から、電車に乗つた。

 電車はひどくこんでいた。が、やつと隅の吊革につかまつて、懐に入れて来た英訳のロシア小説を読み出した。何でも革命の事が書いてある。労働者がどうとかしたら、気が違つて、ダイナマイトを投げつけて、しまいにその女までどうとかしたとあつた。とにかく万事が切迫していて、暗澹たる力があつて、とても日本の作家なんぞには、一行も書けないような代物だつた。勿論自分は大に感心して、立ちながら、行の間へ何本も色鉛筆の線を引いた。

 ところが飯田橋の乗換でふと気がついて見ると、窓の外の往来に、妙な男が二人歩いていた。その男は二人とも、同じやうなボロボロの着物を着ていた。しかも髪も髭ものび放題で、如何にも古怪な顔つきをしていた。自分はこの二人の男に何処かで遇ったような気がしたが、どうしても思い出せなかつた。すると隣の吊革にいた道具屋じみた男が、

「やあ、又寒山拾得が歩いているな」と云つた。

 そう云われて見ると、成程その二人の男は、箒をかついで、巻物を持つて、大雅の画からでも脱け出したやうに、のつそりかんと歩いていた。が、いくら売立てが流行るにしても、正物の寒山拾得が揃って飯田橋を歩いているのも不思議だから、隣の道具屋らしい男の袖を引張って、

「ありや本当に昔の寒山拾得ですか」と、念を押すように尋ねて見た。けれどもその男は至極家常茶飯な顔をして、

「そうです。私はこの間も、商業会議所の外で遇いました」と答えた。

「へええ、僕はもう二人とも、とうに死んだのかと思つていました。」

「何、死にやしません。ああ見えたつて、ありや普賢文殊です。あの友だちの豊干禅師つて大将も、よく虎にのつちや、銀座通りを歩いてますぜ。」

 それから五分の後のち、電車が動き出すと同時に、自分は又さつき読みかけたロシア小説へとりかかつた。すると一頁と読まない内に、ダイナマイトの臭いよりも、今見た寒山拾得の怪しげな姿が懐しくなつた。そこで窓から後ろを透して見ると、彼等はもう豆のやうに小さくなりながら、それでもまだはつきりと、朗らかな晩秋の日の光の中に、箒をかついで歩いていた。

 自分は吊革につかまったまま、元の通り書物を懐に入れて、家へ帰つたら早速、漱石先生へ、今日飯田橋寒山拾得に遇ったという手紙を書こうと思つた。そう思ったら、彼等が現代の東京を歩いているのも、ほぼ無理がないような心もちがした。

 

荘子は送終を説いて 天地を棺槨(かんかく)と為せり
吾の帰ること此に時あり 唯だ一番の箔を須(もち)うるのみ
死して将に青蝿を餧(か)わんとす 弔うに白鶴を労らわしめず
首陽山に餓えて著(あ)らば 生きては廉(きよ)く死するも亦た楽し

(鑑賞)
荘子はおのれの臨終に際して、天地を棺とするゆえ何も要らぬといった。
おのれの死なねばならぬ時が来たなら、ただ死骸を包む一枚のすのこがあればそれで十分、と。
死ねば蝿の餌になるがよかろう、立派な弔問などまったく不要である。
昔の伯夷・叔斉が義を守って首陽山で飢え死にした覚悟があれば、生きては清く、死ぬこともまた楽しみなもの。

吾が心秋月に似たり 碧潭清くして皎潔たり
物の比倫に堪うる無し 我れをして如何ぞ説かしめん

(鑑賞)
わたしの心は秋の月。冴え冴えとした光は、深緑の深淵を水底までくまなく照らし尽くす。
この澄み切った境地をたとえるものは何もない。それを説明する言葉も私は持たない。