INSTANT KARMA

We All Shine On

樋口一葉・おそるべき高峰秀子

朝起きて天気も良かったので、近所の小さな映画館に、高峰秀子の出演作樋口一葉』(監督・並木鏡太郎、昭和14年を観に行ってみた。

サービスデーの水曜日で祝日だったこともあってか、空いてるだろうとタカをくくっていたのだが豈はからんや、切符売り場は長蛇の列で、補助席を出す程の盛況。

樋口一葉を演じる主演は山田五十鈴で、ほぼ出ずっぱり。デコは「たけくらべ」の美登利を演じたがチョイ役程度で出番は少なかった。それでも可憐で勝気な美登利がサマになっていて、作品の中で忘れ難いインパクトを残した。

山田五十鈴は若くして人の世の苦労を舐めた薄幸の美人作家を好演していたが、残された写真を見る限り実際の樋口一葉の方が美人だったんじゃないかという気がする。少なくとも樋口一葉の顔の方が自分は好きだ。

一葉の日記については和田芳雄が綿密な研究をして有名な本を書いている。その中で和田が24歳で没した一葉の「非処女説」を唱えたために出版界から干されたという嘘みたいな話もあるそうだ。

映画の切符を買う際に、いつか買おうと思っていた高峰秀子ベストエッセイ』(ちくま文庫、2022年)を購める。既出の本の中から斎藤明美が編集したもの。

「珠玉のエッセイ集」という言葉がこれほどふさわしい本もないが、それではあまりに平凡すぎると考えてか、帯には「おそるべき随筆」とある。

たしかに、幾重もの意味でこの随筆集は「おそるべき」だろう。

斎藤明美が編者あとがきで述べているように、小学校には六年間のうち延べ一か月も通えず、30歳になるまで辞書の引き方を知らなかった(夫の松山善三に教えてもらった)人が書いた文章がこれ、というのは真実「おそるべき」だし、くどくど書かないがその内容の深さ鋭さもまた「おそるべき」である。身近な人間(斎藤)から「この人は他人とコミュニケーションをとる気がないんじゃないか」と思えるほど捨て鉢なところのある人間の書くものがこれほど読む者の胸を打つという点でも「おそるべき随筆」である。

ついでだから書くが、女優の書いた自叙伝で「わたしの渡世日記」を超えるものは金輪際出てこないだろうし、それは内容の豊かさや文章の巧さだけではなく、これほど正直に自分のことを書いた人はいないという意味でもそうだ。

人気絶頂の26歳のときにパリに単身旅行し半年滞在するが、その前後に東宝のプロデューサー(平尾と実名で書かれている)と不倫関係にあったことを書いている。パリへの逃避行は養母の志げによる束縛からの解放を求めてのものでもあったが、帰国後に志げと衝突し家から飛び出した高峰は、その男性の家を訪ねる。

住所を知らないのでほうぼう訪ね歩いた挙句、夜中にやっと彼の家に着くと、男はいなかった。老人(彼の父親)に家具のないガランとした部屋に通され、ぽつねんと置き去りにされた。

一月の、火の気のない日本間は、身体がすくみ震えるほど寒かった。プロデューサーの平尾が諏訪へなど行っているはずはない。どんな場所に誰といるかは、私には見当がついていた。それはともかく、そういう彼の帰りをひたすら待っていなければならないこの私自身の、なんと間抜けてこっけいで、みじめったらしいことか・・・。

これが一週間前に羽田空港で歓声と花束に迎えられ、カメラのフラッシュを浴びてニッコリしていた華やかな人気スターの真の姿なのだ。自分の家どころか、今夜一晩の寝場所さえ得られず、しめった座布団に座り込んで、歯をガチガチさせているのが本当の私なのだ。

「親のありがた味が分かっただろう」

私の耳の奥に、母の言葉が何度も何度も波のように押しよせてきた。

なんという冷徹な自己認識の眼であることよ。

こんな「おそるべき」自叙伝が、他のどんな女優に書けるだろうか。

いつか見たかげろう

1997年にシングル「Shinin' You」のカップリングで発表された「いつか見たかげろう」は、スライダーズ後期の名曲の一つ。

今春のスライダーズ再結集ツアーでも演奏されている。

スライダーズはこの曲の3年後に解散してしまうのだが、この頃にはもうその兆候のようなものはあったのかもしれない。

スライダーズ解散の原因は、音楽的にもっと冒険したいという蘭丸と他のメンバーとの方向性の違いにあったと言われている。

それを「蘭丸のせい」と片づけてしまう見方もあるが、自分には蘭丸の気持ちはよくわかる。ずっと同じパターンの演奏を続けていくとどうしても弛緩してしまう。

70年代ストーンズとブルースをベースにしながらも、ファンクやポップスへの指向性も見せていた蘭丸は、スライダーズの音楽性の発展にポジティブな刺激を与えてきた。

「991/2」や他のバンドへの参加、そしてとりわけ「麗蘭」での活動が、スライダーズ以外の場所で自分の可能性を広げていきたいという思いを強めたのだろう。

新しいことをやりたいという蘭丸と、己のスタイルを貫くことに美学を持つハリーとの価値観の違いはいつか決裂する運命にあったともいえる。

スライダーズのセールスもこの時期は低調で、アルバム収録曲の歌詞の一部を削除されるなど、レコード会社との関係がうまく行っていないこともあっただろう。

逆にそういう時期だからこそ踏ん張って耐えることが大事だったとも言えるのだが、ハリーは蘭丸抜きのスライダーズを続けることを潔しとしなかった。

 

 

「いつか見たかげろう」は懐古的なロックンロールで、後期スライダーズ(この時期のハリー)にとって象徴的ともいえる歌詞と楽曲である。

 

時に埋もれちまった奴らの声が

この街角に聞こえるよ

 

俺達の髪を巻き上げた

あの風が愛しい

 

といったフレーズは、過去のいくつもの楽曲を思わせる。

「時」「街角」そして「風」。

とりわけ自分なんかは「Angel Duster」を連想するのだが。

「Angel Duster」は、ハリーが初めて「シングルで勝負できると思った」思い入れの強い曲でもある。

 

もう一度無邪気にはしゃいでくれよ

Take a baby 忘れちまったかい

俺達に優しかったかげろうは

あの夜のままに今も揺れてるさ

 

無邪気にはしゃいでいた時代の終わりと、それでもロックンロールは死んじゃいないさという祈りにも似た思いが籠っている。

「いつか見た」ということは「今は見ていない」ということである。

ロックンロールのほうは変わっちゃいないのに、俺たちが変わっちまったから見えねえのさ、と言っている。

軽快に歌われるがけっこうヘヴィーな歌詞ともとれる。

 

もう一度マジな涙流せよ

Take a baby お前に見えるかい

俺達に微笑んでたかげろうは

真昼の街角に今も揺れてるさ

 

これは誰に向けた歌詞なのか?と思い詰めるのは危険だから止めておこう。

80年代をスライダーズと共に過ごしたファンたちに向けて歌っていると思うのが一番いいのだろう。

2024年の今、ハリーがこの曲を再結集スライダーズのライブで歌うのを選んだということに深い感慨を覚える。

Hurting Dreams

昨夜CSフジテレビで放送された『のん監督主演~夢が傷むから~MV ドキュメンタリー』を見た。

又吉直樹のエッセイ集『東京百景』の「池尻大橋の小さな部屋」という作品にインスパイアされたというのん作詞・ひぐちけい作曲の『夢が傷むから』という楽曲のMVの監督・主演・編集を務めた制作過程に密着した50分のドキュメンタリー。
のんは又吉の若い頃の役を演じている。恋人役に元BiSHの加藤千尋

 

いきなり「私が好きなものを伝えたいと思う気持ちは〈計算〉じゃない」と力説する、のん監督のアップ映像で始まる。

それまで見せたことのないような、決然とした表情で内心を語る姿が新鮮だった。

それ以外にも、ロケの予定日前日に雪となり、監督・社長として100万円の出費覚悟で延期を決断する様子や、撮影の後日に編集のためPCに向かう姿なども収められていた。

撮影現場での演者への指示や自らのバンド演奏時の演出なども、「Ribbon」の頃よりもさらに板についてきた感じ。

のんのファンのみならず、一人の傑出した表現者のリアルタイムの制作活動を目撃することに興味のある全ての人に必見の内容と言えた。

前事務所から独立し「のん」に改名してからの能年玲奈は、本当に気持ちの良いほどまっすぐに「やりたいこと」を貫き続けていて、「世の中そんなに甘くないぜよ」と腕を組んでみているような底意地の悪い連中が舌を巻くような驚くべき活動ぶりを見せてきた。

同情すべき立場にある彼女を助けたいと願う人たちによるサポートや、大物たちを味方につける人間性の魅力といったものだけでは説明のつかない、何かマジカルなものがそこにはある。

 

2013年にNHKの朝の連ドラの主役として伝説的な演技を見せた彼女を見たときには、天性の大物女優が出現した、と疑わなかった。だが、彼女はたんに「来た役を引き受け、演じる」という女優という枠には到底収まりきらない存在であるということが次第に明らかになってきた。

ベースとなる女優活動、モデルとしての活動に加え、自らの主体的表現としての音楽活動、美術方面の活動、そして映画監督、MV製作、さらにはそれらの最終責任者としての事務所社長の活動などを精力的にこなしている姿を見るにつけ、

彼女の中にはマグマのような抑えきれない表現欲求が渦巻いていて、何が何でもそれを現実化せずには済ませぬ、という強固な意志が宿っているのだとしか思えない。

それが又吉直樹がインタビューで語っていた内面の「静かな炎」というやつだろう。

 

又吉は彼女の「得体の知れなさ」にもインタビューで言及していた。彼は〈のん〉のつかみどころのなさ、本当の所で何を考えているのか分からない、得体の知れない感じを文学者としての鋭い感受性で感じ取っている。

彼女の多彩な表現活動の動機はたんなる自己顕示欲とは違う。

彼女が「計算」という言葉で否定するのは、言い換えれば「小賢しい大人の知恵」ということだろう。彼女にとって表現とは、子どもがその衝動のままにイケナイことをしてしまうような、無邪気で解放的な戯れに他ならない。

次に何をしでかすか予想がつかない「ワルイちゃん」や「疳の虫」こそが彼女の「静かな炎」の正体なのではないか。

のんが撮影した『夢が傷むから』のMVには、又吉直樹の「池尻大橋の小さな部屋」が内包するような鬱屈した苦悩は存在しない。

それでも「夢」は「傷んでいる」のだ。それは文学臭のない痛みであり、全力で走る子どもが転んで擦りむいた傷のような痛みだ。

そして、のんは痛み(傷み)を否定的なものとは捉えていない。それは「輝く夢を掴む」ために必要な犠牲なのだ。

藤井風はドメスティックハラスメントの被害者

昨夜NHK総合で放送された藤井風tiny desk concertsはすごくよかったのだが、Youtubeに上がっていないことに衝撃を受けた。

 

このコンテンツを世界中で見れるようにしない理由が理解できない。

韓国での同様の企画Tiny Desk Koreaは当然ながらYoutubeで誰でも見れる。

 

youtu.be

 

せっかく藤井風が全編英語でMCまでしているコンテンツを国内限定にする意味が分からないし(NHKワールドなんて見てる人はほとんど限られる)、これをYoutubeで見れるようにしたことで「何のために受信料を払っているのか!」と怒る視聴者がいるとは思えない。

 

こういうところに日本の音楽産業の後進性が表れていて、いつまで経ってもワールドクラスになれないことのネックになっている気がしてならない。

人生四次元体

藤井風「満ちてゆく」のMVはものすごくよくできていて、映像と役者が強力なので、音楽がBGMのようで、なかなか入ってこなかった。

僕は常々人間の一生というのは四次元構築物だと思っていて、過去と未来は現在と同じように存在していると思って来たので、ハイデガーベルクソンが同じように考えているのを知って嬉しかった。

このMVも、そういう風に見ることができる。

一人の人物の生涯を時間を超えた俯瞰から眺めているような気分になる。

 

いきなり絶筆のシーンから始まる

ノートには「これは最愛の母の物語です」と(マザーは母なる神の象徴ともとれる)

誰もが「役所広司か!」と叫んだ自助グループ(アル中?)での光景

これは幻? それとも

バーでピアニストとして生計を立てる老人

time after time...

my foolish heart...

それを見守るのは…

部屋で独り黙想に沈む

大海の中で独りぼっち流されてきたような人生だったが・・・

若き日の姿 希望に胸を弾ませて出社

サラリーマン風になったとたん偏差値が下がる風ちん(笑)

いきなり上司の叱責を食らい懸命に反論(言い訳)する風ちん

落ち込んでオフィスでぐったり

必死の営業活動その1

必死の営業活動その2

どうもうまくいかんのじゃ・・・

酔っぱらって酒場で乱闘騒ぎ

クビになり荷物をまとめて会社を出ていく

地下鉄で独り落ち込む

硝子越しに見える人影は・・・?

あのときの(潜在意識の)記憶が・・・

人影を追うが・・・

子供の頃、窓越しにピアノ店を覗き込む

母と店に入って試し弾きさせてもらったピアノ

意識の底に眠る母への思い

再びあのピアノ店を訪れる

衝動に駆られて

教会に駆け込んだ

母の眠る墓地へ

老人は車椅子でどこへ向かうのか?

母と二人で入ったあの教会

どうしても見ておきたいものがある

迷える身に救いの手を

俺はどう生きればいいのか

最期に確かめたいものがある

祈る どうか導いて

願う どうぞ連れて行って

今日の悲しみを乗せて

明日の喜びを運んで

母の肖像

いま呼び覚まされた感情

怖くはない 失うものなどない

最初から何も持ってない

今解き放つ

そして 何も持たずに帰る

全て与えて帰ろう

ありがとうって胸を張ろう

待ってるから もう帰ろう

幸せ絶えぬ場所・・・

「では、もはや何も嘆くことはないのか?」と神の声はたずねた。
「何もありません」とクヌルプは頷き、恥ずかしげに笑った。
「すべてが良いのか? すべてが、こうあるべきであるのか?」
「ええ、」とまた頷いた、「すべてが、こうあるべきです。」
神の声はしだいに低くなり、あるときは母の声のごとく、またはヘンリエッテの声のように、そうかと思うと、リーザベットの優しく美しい声にも似て響くのであった。
クヌルプがもう一度目を開けようとしたとき、太陽が、眩しく照りつけるので、彼はすぐに瞼を閉じなればならなかった。雪が、両手の上に降りつもって、重かった。彼はそれを払い落とそうとした。が、今はもう、ただ眠りたいという気持ちが、他のいかなる気持ちよりも、強くなりまさっていた。

「漂泊の魂」ヘルマン・ヘッセ、相良守峯訳

youtu.be

Overflowing

藤井風の新曲が出た。

youtu.be

公式YouTubeのコメント欄がすごい。

三日前にがんと診断されましたまだ10代です、すごく落ち込んでました。
だけど風さんのこの曲を聴くとすこし救われた気がしました

いま、入院しているベッドの上で真っ暗な中観ました。自分があとどれくらい生きていられるのだろう?と考えている日々の中、また風くんの歌、音楽にまるで心を治療されているようです。軽くなり、満ちていく気持ちです。ありがとう

高校生です。精神疾患を患ってしまい高校を辞めざるおえませんでした。頑張って入れた第1志望の高校を辞めるという選択肢は本当に苦しかったです。
その影響もありずっと死にたくて。何度も命を絶とうとしました。
でも風くんを見てると自然と笑顔になれます。
風くんがいるから生きていけると言ったら大袈裟に聞こえるかもしれないけど、私にとっては風くんの作る曲、書く歌詞、纏う空気、存在、全てに救われました。
風くんが命拾いをしてくれたと言っても過言では無いです。
これからも私の人生にとって1番の命の恩人です。大好きです。ありがとう。

高校1年生です。ちょっとしたいじめを過去に受け、現在唯一の2人の友人から距離を置かれることになり、心が病んでいます。この曲を聞いて心が少し軽くなりました、心を満たして生けるように頑張ります。

昨日 うつって診断されました。将来に希望が持てなくなって 今までの私って何だったんだろうって。 この曲とみなさんのコメントを読んで、私は手に入れることばかりを求めていたんだって気づきました。常に満たされる感覚を求めていたんだと思います。 すでに得ているものは沢山あるって 風さんの音楽で気が付いていたのに手放せない想いが私を苦しめる でもこの曲で救われました。風さんに出会えて良かった。ありがとう

藤井風さんの音楽と共に13歳からの人生を歩めることを誇りに思うし、とても満ちています。藤井風さんと出会って、それまでなかった人生の目標ができました。こんなにかっこいいと思った人は藤井風さんだけです。笑う時も、受験の時も、泣いている時も、ずっと藤井風さんの音楽を聞いていました。それぞれの曲を聴くと、それぞれに思い出があって、蘇ってきます。人間に生まれてよかった。そう思えることが本当に嬉しいです。これからも応援させてください。
本当にありがとう、風

高校1年生です。人と関わるのが苦手で人間関係に悩まされてる中風さんと出会い365日聴かない日は無いです。
これから満たされる人生になるように生きていきます。早く風さんに会いたいです。日産スタジアムでのライブ当たりますように🤞

私ごとですが今日の早朝祖父を亡くしました。

私は家族を失うという経験をしたことがなかったので亡くなったことの実感がなくて涙もでず、ただただ心にぽっかりと穴が空いたままでした。

ただ、今この作品見てから涙が止まりません。

祖父はもう帰ってこないと考えるとどうしたらいいのかわかりません。

時間はかかるし、一歩一歩ゆっくりになってしまうかもしれないけれど、この作品を聞きながら少しずつ前に進めるように頑張っていきたいと強く思いました。

じいちゃん本当にありがとう。


新曲のMVに関係のない独り言のコメントすいません。

 

教祖か!

 

あなたは再臨したキリストですか?

 

別に皮肉で言ってるんじゃないよ。

ただでさえカリスマ感のある藤井風がこんなドラマチックな曲を出せば(そしてまたMVの何とドラマチックなこと!)、こういう反応が来るのは当然というもの。

それにしてもこんなコメントが数時間のうちに数千も寄せられるというのはあまりにもすごい反響と思わざるを得ない。

それだけ時代が病んでいるということか。

しかしアーチストとはいえ一人の若者にこれほどの重荷を背負わせていいのだろうかとさえ思ってしまう。

このような声を受け止めた上で、風のように颯爽と活動を続けていけるなら、本当に尊敬に値するミュージシャンだと思う。でも彼ならやってしまうんだろうな。

価値と評価

市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである。

カール・マルクス」『吉本隆明全著作集12』より

高峰秀子の養女になった斎藤明美サンは、高峰に会ったときに「人間には上・中・下がある」という持論をぶつと、ひとこと「そうよ」と即答されたという。

そのとき生まれて初めて自分の意見を肯定してくれる人に出会えた、と思ったそうだ。

自分は、吉本隆明高峰秀子(斎藤明美)は、どちらも正しいと思う。

(ちなみに吉本と高峰は共に1924年生まれの生誕百周年)

すなわち、二つの命題は矛盾しない。

 

ちなみに上の吉本の言葉の引用元は吉本隆明88語』(勢古 浩爾、ちくま文庫より。

この本は昨日三鷹の本屋で220円で買ったものだが、痺れる言葉がたくさん載っている。

たとえば次のもそう。

人は他者によって作られたじぶんに責任を負わなければならない。それが虚像であるばあいも真実の所在する場所だからだ。そしてこのばあい虚像であるかないかはどうでもいいことで、真実の所在する場所ということが重要なのだ。

『世界認識の方法』あとがきより