INSTANT KARMA

We All Shine On

美人好きは罪悪か?

アサヒ芸能にここまで詳細なライブレポを書いてもらえる結成1周年のアイドルグループなんてそうそうないんじゃなかろうか。

asageimuse.com

記者(須田真輝絵)がよほどのラフラフファンなのか、やはり佐久間宣行の力と言えるのか。

なんにせよ2年目も頑張ってほしい。陰ながら見守っています。

 

以前にもniftyメールの不具合対応について文句を書いたことがあるが、今日はついにログインできなくなるという不具合が発生した。

14:15~からそうなっているのに、発表があったのは14:59。44分も経ってから。

 

 

昨年8月に仕様変更したころから、メールが届かなくなったり、迷惑メールの設定が不便になったりして、何ひとつよいところがない。

問い合わせをしようとしても、電話でもメールでも問い合わせができないようになっていて、どうしようもない。解約しようと思うが、いろいろなところの登録アドレスをniftyにしているので変えるのが面倒くさいという理由でズルズルと来ているが、このような不手際が頻発するならそろそろ潮時か。

 

TWICEはいつまで経っても理想的な輝きを保っているけどこういうコンテンツは歌の魅力がよく伝わって最高。

youtu.be

 

魅力ある日本文化の世界への発信について

アピチャッポン監督のVR作品が上映中だというのを知り、慌てて当日券を買おうとしたが売り切れ。購入のために(どうせ次に使うまでに忘れている)パスワードをまたひとつ登録させられただけで終わった。

まあ縁がなかったとしよう。

 

ゴジラ-1.0』第96回アカデミー賞 視覚効果部門受賞

土曜日に斉藤明美サンが言ってたとおりになった。スピルバーグはこの作品を、こんな低予算でどうやってこんな映像が取れるのかが知りたくて3回見たと言っていた。だから東宝はすごい、かたや・・は全然ダメという毒舌が続くのだが。

 

君たちはどう生きるかアカデミー賞 長編アニメーション賞

この作品の何がそんなに評価されたのか理由が知りたい。

たしかに見たときには感心したけれど、正直万人受けする作品だとも思わなかったので。

だってこんな内容だよ。ただの変態老人の妄想だよ。

政府としては、魅力ある日本文化の世界への発信とクリエイターの皆様の創造活動の支援を一層強化してまいります。

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#ALPS処理水 #新しい資本主義 #外交・安全保障 #災害対応 #経済対策

 

それよりも허지원 huhjiwonが半径500m以内の場所にいたことがわかって思わず秒速5センチメートル奪取ダッシュすべきだったのにできなかったことに気づいたときの口惜しさたるや、アピチャッポンなどとは比べ物にならないのであった。

(曙橋のつけ麺屋に入ったらジウォンちゃんがいた…という事態に比べればアピチャッポンのヴァーチャル・リアリティなんて一行のボードレールにも若かないよね龍ちゃん)

youtu.be

天才とは(中村一義)

吉田豪「中村一義インタビュー」を読んだ。

BUBUKAの電子書籍を購入して全文(15000字)読んだ。

中村一義といえば、デビュー曲「犬と猫」が1997年1月に出たとき、渋谷陽一が「天才」と絶賛していたので、CDを買いに走ったのを覚えている。

確かにインパクトのある曲で、気に入ったので、「街の灯」、「天才とは」、「永遠なるもの」も続けて買った。

アルバム「金字塔」はシングルで聴いた曲が多かったので買わなかった。

当時テレビで細野晴臣の「恋は桃色」を弾き語りしている映像を見て、音源をMD(懐かしいですね)にダビングして繰り返し聴いていた。

その後は、すごい才能あるミュージシャンだとは常に思っていたが、思ったほどメジャーな存在にならなかったな、という漠然とした認識を持っていた。

この20年くらいは、ほとんど存在すら忘れかけていた。

そこにきて、このインタビューである。

ウェブ上でも一部読めるが、すごいインパクトがあった。

中村一義に対する僕のイメージは、文化的教養の高い恵まれた家庭に育って、一人で思う存分宅録に打ち込める環境があって、知り合いのミュージシャンやら人間関係にも恵まれながらマイペースな活動をやってる人、という感じの、ネオ小沢健二やネオ小山田圭吾的な扱いだった。

それは半分は当たっていたが、半分は間違いだったことがこのインタビューで分かった。中村一義の半分はオザケンで、半分は「洞窟おじさん」みたいな人だったのだ。

「洞窟おじさん」というのは、13歳のときに家出し、57歳で発見されるまでの43年間、人知れず洞窟や森の中で過ごしていた加村一馬(かむらかずま)さんのことである。

加村さんが家出して2日目に、聞き慣れた犬の鳴き声が聞こえてきた。まさかと思って後ろを振り返ると、愛犬シロが追いかけて来てくれたのが分かった。加村少年は思わず嬉しさのあまりボロボロ泣いてしまったという。

「もしシロがいなかったら、オレは今生きちゃいねえよ。」と加村さんは振り返る。シロは秋田犬の雑種。家族の中でもシロを一番かわいがっていたのは加村さんだった。

元気づけられた加村さんはシロとともに、どんどん歩いて行く。

「線路ばっか歩くのが嫌になったんだよ。だから途中、左に曲がって川沿いの砂利道を上っていったんだ。見つかって家に連れ戻されたら、親にまたこっぴどく殴られちゃうからな。人目になるべくつかない穴を探して、奥へ奥へと歩いて行ったよ。」

歩き始めて1週間後、加村さんは山の中腹付近にある、ひとけのない洞窟を寝床と決めた。安心したのか、洞窟内に入ってすぐ、加村さんはシロを抱いたまま、眠り込んでしまう。

目を冷ました加村さんは、すぐに〝家づくり〟に取りかかる。穴を封じるように木やツルを集めてドアや天然の寝床を作ったり、薪を集めてマッチで火をおこしたり、燠(おき。赤くおこった炭火のこと)が常に絶えないようにしたりした。

ところがその後ほどなくして、加村さんはぐったりしてしまう。

「洞窟に辿り着いてほっとしたのかな。熱出して、寝込んでしまったんだ。川の向こう側に人がいてオレは川を渡っていこうとする夢を見てたら、耳が猛烈に痛くなった。あまりに痛すぎて、しまいには目が覚めちゃった。シロがオレの耳をかじってたんだよ。ありゃ痛かったよ。でももし、あのときシロがかじってくれなかったら、きっとオレは三途の川を渡ってた。」

意識のない状態から脱した加村さんは、ほうほうの体でなんとか川まで下り、ボロ布を水で濡らしてから、洞窟に戻った。再び横になると、ボロ布を自分の頭の上に置いた。

「するとそれを見てたシロは、あとでボロ布を川の水で濡らして、熱を出してるオレの頭にかけてくれたんだ。あの犬はほんとうに利口だったんだ。頭に載っけてくれた濡れたボロ布は泥だらけだったけどな(笑)。」

洞窟に住み始めて3年以上たったある日、ついに相棒のシロが元気をなくしてしまう。三日三晩寄り添ったが、手の施しようがなく、そのまま亡くなってしまった。

「洞窟は岩だから硬くてシロを埋めてあげられなかったんだよ。それで、シロを抱きかかえて洞窟を出たんだ。山をいくつも超え、ピンク色の蘭の花が咲き乱れているところで、シロを埋めた。その後、さらに山をいくつも越えて、新潟の方へと行ったんだよ。」

僕は加村さんがシロに抱いたにちがいない感情を、「純粋な愛」という言葉以外では表現できない。

仮に、シロをAI(人工知能)を携えたロボットだったと仮定してみよう。

今後、ロボット(AI)との交渉が密接になり、つきあいの歴史が積み重なってきたらどうなるだろうか。心のかたくなな人でない限り、いわば「情が移る」のではないか。

教え、教えられたり、いっしょに活動したり、忠告を受けたり、面倒をみたりみられたり、危ないところを救われたり、(象徴的に言って)同じ釜の飯を食べたり、つまり深い「人」づきあいをした後には、「私」のロボットに対する態度は変わってくるだろう。

私はロボットを傷つけようとはせず、その苦し気な振る舞いに心を動かされ、彼に対して愛情を持つようにさえなるだろう。

われわれが他人を疑いもなく「意識ある人」として見るのは、人間生活の長い歴史をその背景に持っているからである。たとえば愛犬家が犬を喜ばせ、その痛みを気遣うのは、その人と犬との交渉や犬に対する愛情の所産であり、「犬には意識がある」と見て取っているからである。

ある人にとっては猫や馬にとっての態度がそうであるように、さらには昆虫に対してそのような態度で接する人があるように、ロボットの意識もこれにコングロマリット的に連なってゆくのではないか。

そしてロボットの振る舞いがますます洗練され、ますます生き生きとしたものになるにつれ、その意識の連なりはますます強化されていくに違いない。

このように論じたうえで、大森荘蔵は、こう結論付ける。

「ロボットの意識の有無は科学理論や実験室で一挙に決められるものではない。人間とロボットの長い歴史の中で徐々にその答えが形成されていくものなのである。いま、あえてそれを予測するならば、ロボットは意識をもつようになるだろう、といいたい。」

 

吉田豪のインタビューを読んで、中村一義というミュージシャンはこれから目が離せないな、と思ったし、『魂の本~中村全録~』 (太田出版 、2011年)という本も読みたくなった。



作文の書き方教室

近所で高峰秀子主演の『綴方教室』(1938年)が掛っていたので観に行った。

今年は高峰秀子の生誕100周年にあたるということで、各地でさまざまな催し物が企画されていて、これもその一環のようだ。

高峰本人は自伝(「わたしの渡世日記」)の中でこの作品についてこう書いている。

『綴方教室』は、江東に住むブリキ屋の娘、豊田正子という少女の書いた綴方が単行本として出版され、それが山本安英の主演によって新劇の舞台で上演されて好評を博し、その映画化の主演が私にまわってきたものである。呑んだくれの父親に徳川夢声、母親に清川虹子、正子の綴方を指導する大木先生に滝沢修、という配役で、演出は山本嘉次郎であった。

綴方の抜粋から成り立つシナリオには、これといったストーリーがなく、豊田正子の目を通した、生活のエピソードが随想風なタッチで描かれているだけだが、文章に嘘や飾りがなく、大人の小説にはみられないキラキラと光るような場面が幾つかあって、私は好きだった。

高峰の文章は、こうして少し引用するだけでも、その過不足のない美しさに惚れ惚れする。これが小学校に1か月通っただけのほとんど文盲だった少女が大人になって書いた文書だと考えるだけでも感動的である。

映画の中では、主人公の正子が貧乏暮らしの中で家族の目を盗んでコソコソと作文に励む描写があるが、高峰は実生活でも夜中に本を読んでいると養母から「私への当てつけか!」と叱られて電気を消されるような生活だったという。

貧乏の風に吹きまくられる庶民の最底辺の生活が描かれる中で、デコの清々しい美しさはやはり際立っている。とりたてて感動を呼ぶような話はないのだが、なんだか昭和初期の庶民たちが懸命に生きている姿を見ているだけで涙が溢れてしまう。

デコが山本嘉次郎監督が好きになったきっかけになったと書いている「冬の朝の匂い」のエピソードの場面も見れてよかった。

黒澤が糸で作った蚊をデコが叩くシーンも見れた。

デコのアイドル的な可愛さも存分に堪能できたし、見てよかった。

とここまではよかったのだが、この後に高峰秀子松山善三夫妻の養女・斎藤明美氏によるトークショーがあり、これが随分と口の悪いババア強烈な個性の人で、せっかく映画鑑賞後にほっこりしていた心のともしびを揉み消されたような格好となった。

毒舌や他人の悪口というのは、それが的を得ていて対象との適度な距離感があればスッキリ笑えるのだが、陰性で個人的な怨情が籠ったようなものは聞かされた方に後味の悪さだけが残る。この人のは、笑えない毒舌である。

高峰がこういう人を養女に選んだということは高峰自身にも通じる部分があったからだろう。高峰秀子は一面でひどく冷酷でドライな部分があり、「二十四の瞳」で共演した子供たちからも冷たい大人だと見られていたという話をどこかで読んだ記憶がある。

追記:これだった。

1954年、私がまだ10歳の小学生だった頃の小豆島での「二十四の瞳」の撮影期間中、わたし自身の母親役として、半年近くの間、すぐそばで観察していた人。明るく、ものすごく美人だったが温かみを感じることの少ない女優だった。・・・私が大学を出たばかりのころ「小川宏ショー」というのがあって、ご対面場面で彼女に会ったのが最後になったのだが、その時も、温かみの少ない人だなあ・・・という印象が強く、懐かしさを感じることもなかった。

高峰秀子が女優としてだけでなく人物として一級で、昭和の偉人であることに議論の余地はないが、その偉大さの陰には想像を絶する孤独と闇を抱えた内面があったことも忘れてはならない。

松山善三については何も知らないが、高峰にとっては理想的な夫であったようだ。

それだけが救いだな、と思いながら帰途に就いた。少女時代のデコの可愛さを愛でる文章を書くつもりだったのだが・・・

mannequeein

結石手術から退院してエリザベスカラーも取れた我が家の猫は、再び自由で野性な猫に戻った。人の手が届かない高みに昇って人間たちの住む下界を睥睨している。弱っているときの甘えぶりは何だったんだよ、と思う。



 

菊地成孔が「セカンド・スパンクハッピー・レトロスペクティヴ」で岩澤瞳のマネキンをつとめる人を募集しているが、自分の知ってる人の中でどういう人ならとイマジンしてみた。

 

2015年の時点で、TWICEのサナっていう子が岩澤瞳っぽいと呟いている人がいた。今になって見れば全然違うのだが、当時なら、ルックスだけならたしかにふさわしいかもしれない。

 

戦慄かなので見たい、という人もいた。

まあ分からんでもないが、マネキンにしては内面がにじみ出過ぎちゃっている感じ。


だったら鈴木いづみ、じゃなくて鈴木優香さんなんてどうですかね。

スケジュールが合えばやってくれるんじゃないかな。

 

でも理想を言えば、やっぱり吉永サユリチャンですよね。

オファーするのは難しいと思うけど。

 

あとは…

Hanna Schygulla


ななこ

吾妻 ひでおの書籍一覧 - honto

 

"..nel bel mezzo dell’odio ho scoperto in me un invincibile amore. Nel bel mezzo delle lacrime ho scoperto in me un invincibile sorriso. Nel bel mezzo del caos ho scoperto in me un’ invincibile tranquillità. Ho compreso, infine, che nel mezzo dell’inverno vi era in me un’invincibile estate. E ciò mi rende felice. Perché afferma che non importa quanto duramente il mondo mi vada contro, in me c’è qualcosa di più forte, qualcosa di migliore che mi spinge subito indietro."

Albert Camus

 

「…憎しみの真っ只中に、私は自分の中に無敵の愛を発見した。涙の真っ只中に、私は自分の中に無敵の笑顔を発見した。混沌の中で、私は自分の中に無敵の静けさを発見した。その真ん中で、私はついにそれを理解した」

アルベール・カミュ

小林秀雄のベルクソン論(「感想」)3

あんまり続けるのもなんだから、今回でいったん終わりにする。

 

小林は、昨日書いた「蛍になったおっかさん」を見て二か月ほどして、また不思議な経験をする。「ベルクソン論」(「感想」)の冒頭に出てくる二つ目の挿話がこれである。

或る夜、晩(おそ)く、水道橋のプラットフォームで、東京行の電車を待っていた。まだ夜更けに出歩く人もない頃で、プラットフォームには私一人であった。私はかなり酔っていた。酒もまだ貴重な頃で、半分呑み残した一升瓶を抱えて、ぶらぶらしていた。と其処までは覚えているが、後は知らない。爆撃で鉄柵のけし飛んだプラットフォームの上で寝込んで了ったらしい。突然、大きな衝撃を受けて、目が覚めたと思ったら、下の空地に墜落していたのである。

以前この話を知った時の自分の勝手な印象では、酔っぱらってホームから線路に落ちたのだと思っていたのだが、どうやら駅のプラットフォームから10メートルは下にある地面に落下したということのようだ。線路の反対側の、柵の破壊された神田川側から転落したとのことで、ある意味で線路より危険な事故である。

外壕の側に、駅の材料置場があって、左手にはコンクリートの塊り、右手には鉄材の堆積、その間の石炭殻と雑草とに覆われた一間ほどの隙間に、狙いでもつけた様に、うまく落ちていた。胸を強打したらしく、非常に苦しかったが、我慢して半身を起し、さし込んだ外灯の光で、身体中をていねいに調べてみたが、かすり傷一つなかった。一升瓶は、墜落中、握っていて、コンクリートの塊りに触れたらしく、微塵になって、私はその破片をかぶっていた。

今日出海との対談でもこう語っている:「反対側のコンクリートの上に落ちたら即死だね。僕の方は機械と機械の間の、柔らかい泥に石炭殻の積んである所に落っこった。瓶を持って落っこった。瓶は機械にぶっつかって粉微塵さ。もうちょっと、五寸ぐらい横に落っこったら死んでいた。」

私は、黒い石炭殻の上で、外灯で光っている硝子を見ていて、母親が助けてくれた事がはっきりした。断って置くが、ここでも、ありのままを語ろうとして、妙な言葉の使い方をしているに過ぎない。私は、その時、母親が助けてくれたと考えたのでもなければ、そんな気がしたのでもない。ただその事がはっきりしたのである。

 胸が苦しいので、しばらく横になろうとしている時、駅員が三人駈けつけて来た。後で聞いたが、私が墜落するのを、向う側のプラットフォームから見た人があり、その人が報告したからである。私が最初に聞いたのは、「生きてる、生きてる」という駅員の言葉であった。これも後から聞いたが、前の週、向う側のプラットフォームから墜落した人があって、その人は即死した。

私は、駅員達に、大丈夫だ、何処もなんともない、医者も呼ばなくてもいい、何処にも知らせなくてもよい、駅で一と晩寝かせて欲しい、と言った。私は、水を貰って呑み、朝までぐっすり寝た。翌日、迎えに来たS社の社員に、駅の人は、どうも気の強い人だ、と言ったそうだが、私はちっとも気の強い男ではない。ただ、その時私は、実に精神爽快だっただけなのである。 

「はっきりした」という言い方で、小林はベルクソンの言う「直観」とか「直接体験による認識」、つまり分析的知性には届かない領域の「知ること」について語っている。

ベルクソンは物事を分析し、一般化して定義づける知性と、物事を内側から具体的に知る直接的な認識のはたらき(直観)を区別して、一貫して後者の側から哲学した人である。

「おっかさんが蛍になった」ことや「おっかさんが墜落事故から助けてくれた」ことを証明することは不可能である。というよりも、両方とも「思い込みに過ぎない」で片づけられる話である。もちろん小林も現代人だから、付き合い上、そういう考え方をするふりはする。

しかし小林にとっては、それらはわざわざ証明する必要のないほど明らかなことだというのだ。彼の中には「反省は、決して経験の核心には近付かぬ」という確信だけがあるというのである。

小林が持っていた、直接経験に基づかない知的遊戯への反感、常識に逆らう逆説的な物の見方というものはベルクソン哲学の影響を強く受けている、というよりは、ベルクソンの哲学が彼の世界観を正当化し、補強したといってよいだろう。

彼が「戦争に反対しなかったことを反省するつもりはない」と言い切れたのも、運命論と運命の選択可能論を共に否定するベルクソンの自由論に依るところが大きいように思う。

この冒頭のエピソードは、小林なりのベルクソン哲学の実践といってよいものであり、以後ベルクソンを論じるにあたっての土台となるものである・・・はずだったのだが、この後、56回に渡って書き続けられるベルクソン論は、専ら彼の哲学の紹介に終始し、小林独自の文学者としての洞察がやや影を潜めているように思えるのは、これが遂に未完に終わったことを知っている故の後付けの印象だろうか。

小林がこの第1回の調子で、その後の章もベルクソン哲学の字句の紹介に捉われず自由に書いていたら、それは『本居宣長』を超えるとてつもない作品になったのではないかという気がしてならない。

未完

小林秀雄のベルクソン論(「感想」)2

小林秀雄ベルクソン論は、こんな風に始まる。

(なお、小林は「ベルグソン」と表記しているが、今の表記に倣ってこの中では「ベルクソン」とする。)

終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたへた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかったように思う。・・・(中略)・・・私は、自分の悲しみだけを大事にしていたから、戦後のジャーナリズムの中心問題には、何の関心も持たなかった。

戦争に対して戦後に小林が取った態度は一貫している。彼は一部の「良心的」知識人(高村光太郎がその代表)のように、心ならずも戦争に加担したことの反省などは決して口にしなかった。彼にとって重要なのは戦争が終わったことよりも母親の死という個人的体験であったと小林はここでも強調している。

そしてここから、大岡昇平によると「小林が発狂したのではないか、と思った人があった」という、異様な挿話が語られる。

母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。誰にも話したくはなかつたし、話した事はない。もっとも、妙な気分が続いてやり切れず、「或る童話的経験」といふ題を思ひ付いて、よほど書いてみようと考へた事はある。今は、ただ簡単に事実を記する。

秀雄の母・精子が亡くなったのは昭和21年5月27日、享年66歳であった。

小林が戦後発表した初めての作品「モオツアルト」には「母上の霊に捧ぐ」との献辞がある。これは「極く自然な真面目な気持ちからであった」という。

今日出海との対談の中で小林は、母親が天理教の信者だったので小林も入信したが、晩年母が「お光りさま」に信仰を替えたので(岡田茂吉世界救世教のことか)秀雄自身も入信し、母親に霊的治療を施すために(というよりは母親を安心させる為に)手かざし治療の免許(?)まで取得したと語っている。

小林にとって母親がどれほどの存在であったかを語って余りある話だと思う。

さて、肝心の逸話の方だが、

仏に上げる蝋燭(ろうそく)を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷(おうぎがや)の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。

これは亡くなって数日後の話である。深い衝撃と悲しみに沈んだ秀雄が、目に映るすべてのものに「おっかさん」を見ることに何の不思議があろうか、と思う。

その年に初めて見る、今まで見たこともないような大きな蛍が目の前に飛んでいるのを見て、「おっかさんは、今は蛍になっている」のだと秀雄が考えた(というより「直観した」)のは、「極く自然な真面目な気持ちから」以外のものではありえないだろう。

ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に付する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼(か)も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。後になって、私が、「或る童話的経験」という題を思いついた所以(ゆえん)である。

小林は、一方でこれが母の死に際して生じた感傷に過ぎないという当然の見方を肯定しつつ、「おっかさんが蛍になっている」という考えに執拗にしがみつく。

「反省的な心の動きが少しもなかった」ということは、「おっかさんが蛍になった」ことの裏付けにならないのも当然のことである。それはただ小林がその場で「おっかさんが蛍である」と感じたことの理由に過ぎない。

しかし小林は、この体験がリアル(実在)であるとどうしても言いたげなのだ。

ゆるい傾斜の道は、やがて左に折れる。曲り角の手前で、蛍は見えなくなった。人通りはなかった。S氏の家を通り過ぎようとすると、中から犬が出て来て、烈(はげ)しく私に吠えかかった。いつも其処(そこ)にいる犬で、私が通る毎に、又、あいつが通るという顔付きをする、言わば互いによく知り合った仲で、無論、一ぺんも吠えついた事なぞない。それが、私の背後から吠えつくのが訝(いぶか)しかった。私は、その日、いつもの不断着で、変わった風態(ふうてい)に見える筈(はず)もなかった。それよりも、かなり大きな犬だから、悪く駆け出したりして、がぶりとやられては事だ、と思い、同じ歩調で、後も見ず歩きつづけたが、犬は、私の着物に、鼻をつける様にして、吠えながらついて来る。そうしているうちに、突然、私の踝(くるぶし)が、犬の口に這入(はい)った。はっと思ううちに、ぬるぬるとした生暖かい触覚があっただけで、口は離れた。犬は、もう一度同じ事をして、黙って了った。私は嫌な気持ちをこらえ、同じ歩調で歩きつづけた。後を振り返れば、私を見送っている犬の眼にぱったり出くわすであろう。途端に、犬は猛然と飛びかかって来るだろう。そんな気持ちがしたから、私は後を見ず歩いた。もう其処は、横須賀線の踏切りの直ぐ近くであったが、その時、慌ただしい足音がして、男の子が二人、何やら大きな声で喚(わめ)きながら、私を追いこし、踏切への道を駈けていった。それを又追いこして、電車が、けたたましい音を立てて、右手の土手の上を走って行った。私が踏切りに達した時、横木を上げて番小屋に這入ろうとする踏切番と駈けて来た子供二人とが大声で言い合いをしていた。踏切番は笑いながら手を振っていた。子供は口々に、本当だ本当だ、火の玉が飛んで行ったんだ、と言っていた。私は、何んだ、そうだったのか、と思った。私は何の驚きも感じなかった。

いつもは黙って通り過ぎるだけの犬がなぜかこの日は小林に執拗に吠え付いたこと、二人の男の子が「火の玉を見た」と駅員に訴えたこと、この二つの出来事をわざわざ書き加えたのは、小林が「おっかさん=蛍=火の玉(亡霊)」という現象が「客観的にも(第三者の目にも)」リアル(現実)のものであったことの根拠づけに用いているとしか思えない。

幽霊話や超常現象を論じる際に、その体験が別の(複数の)人間によっても共有されたことを示すことで説得力を増すという、よくあるやり方である。

こんなことを書くのは、別に小林の体験がただの幻想(気のせい)であると強調したいが為ではない。

小林がわざわざ「ベルクソン論」の冒頭にこの話を置いた意味を探る為である。

以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基いていて、曲筆(きょくひつ)はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事実の徒(いたず)らな反省によって生じたのであって、事実の直接な経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。という事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。

ベルクソン心霊主義協会の会長を務めた人物であり、心霊現象を肯定していたことは前にも書いた。しかしベルクソンは、小林のように、彼自身の体験としてこういう話を書いたことはなかった。

明らかに小林秀雄ベルクソンが敢えて越えなかった境界を超えている。それは小林が哲学者ではなく文学者だからであり、この話を冒頭に持ってきたことによって小林は、自分はこれからベルクソンの哲学を哲学として論じるのではなく、文学者としてベルクソンを語るのだと宣言しているのである。

つづく