War Is Over

 if you want it

文学とは縋りつくもの

本の雑誌」2022年6月号に掲載されている「藤澤清全集内容見本」を眺めて、改めて賢太の藤沢清造に対する尋常ならざる思いの深さに圧倒された。

内容見本に寄せた文章(「藤澤清造全集』編集にあたって)の中で「この全集さえ完結出来たら、もう、あとはいつ死んでもいい。全力で編集にあたらせていただく」と賢太は書いているが、この内容見本では既に全集の全体像と具体的な中身が詳細に明らかにされ、あとは刊行を待つのみという状態になっている(内容見本とはそういうものなのかもしれないが)。

掲載されている「略年譜」も「略」どころか詳細きわまる内容で、藤澤の生前の肖像写真もふんだんに掲載、作家の藤本義一を含む七名もの「推薦の言葉」が並べられており、この内容見本そのものが、藤澤清造という不遇な作家の復権に寄与すべき第一級の資料となっている。

この「凝りに凝った」内容見本に目を通せば、『小銭をかぞえる』をはじめとする私小説の中で出版費用の工面に悪戦苦闘する「私(北町貫多)」の心情が、一層リアルなものとして感じられること請け合いである。

最後のページに、第1回配本が2001年3月上旬、第2回配本が2001年9月上旬と謳われ、現物のイメージ写真も掲載されている。さらに西村賢太著『藤澤清造伝 上・下 ―どうで死ぬ身の一踊り』(上巻270頁、予価3800円)の近刊も予告されている。

周知のとおり、この全集は編集人たる西村賢太の死により未刊のままとなった。おそらく将来にも刊行されることはないだろう。賢太以上の情熱と執念をもってこの出版に取り組む研究者(在野も含め)が存在するとは思えないからである。

賢太の生前に未刊となった理由は、当初は資金不足が大きな理由だったが、芥川賞を受賞し、人気作家となって以降は、自らの作家活動のために全集のための時間とエネルギーを費やせなくなったことが第一の理由だったろう。

全集の代わりにはなりえないにせよ、賢太の作家としてのネームバリューのおかげで、藤澤清造の作品集が何冊も文庫化された。これをもって没後弟子としての責務は果たしたといえるのではないか。そして本人も内心そう思っていたのではないだろうか。

本の雑誌」の特集の中でも、印象に残ったエピソードは藤澤清造にまつわるものが多い。自分の本ではそこまでこだわらないのに藤澤清造短編集では色校に納得がいかず九校までやり直させたとか、七尾での文学散歩に参加した際に暑さの中でも決して上着とネクタイを取ろうとしなかったとか、清造忌では座布団にも座らずびしっと正座してお経を三十分以上ちゃんと聞いていたとか。

極めつけは、賢太の本の多くの装画を手掛けたイラストレータ信濃八太郎氏に対して語った次の言葉だ。

師匠たって、こっちは勝手に没後弟子名乗っているだけだから。端から見りゃただの戯言です。でもその戯言にすがりつかなきゃ生きていけねえ人間もいるってことです

信濃氏は、この三月、七尾に墓参りしたとき、賢太の建てた生前墓が師の藤澤清造の墓より幾分低く作られていたことに気付いたという。

西村賢太をして、そこまで藤澤清造に、そして〈文学〉に縋りつかせたものとは、一体何なのか。

西村賢太が三十年間通い続け、亡くなった日の直前にも電話で話したという朝日書林の荒川義雄が、興味深い証言を残している。

賢太が自費出版していた「田中英光私研究」に載せた小説を、文学研究家・保昌正夫が高く評価した。それで荒川が保昌に賢太を紹介すると、賢太は企画展に参加させてほしいと頼み、断られてひどく落ち込んだという。

そのとき、保昌正夫は荒川に、「あれは放っておくと堕ちるところまで堕ちる」、誰か見ている人がいないとだめだ、と言った。それで荒川が賢太の面倒を見るようになったのだという。同人「煉瓦」を紹介したのも荒川だった。

保昌正夫もまた、〈文学〉に魅入られた人物であった。『牧野英二』『川崎長太郎抄』『和田芳恵抄』『瀧井孝作抄』などの著書があり、最も有名なのは、『定本 横光利一全集』で、「個人全集」としては過去に類を見ない大編纂事業として称賛され、編集の緻密さにおいても最大級の評価を得たものだという(下記ブログ記事参照)。

保昌正夫は、共に〈文学〉の深淵を覗き込んだ者として、ただ一度の邂逅で西村賢太という人間の本質を見抜いたのだ。

このエピソードは、賢太の小説には決して書かれない貴重なものだ(5月25日に発売される「雨滴は続く」にはこのあたりのことは書かれているのだろうか。是非読んでチェックしたいと思う)。