1975年(昭和50年)
4月10日、兵庫県で出生。出身は同県三木市緑が丘町。三人兄弟の二男で、兄と弟がいた。父は地方公務員で神戸税関に勤務。他の子供が見ているようなTV番組を見たりゲームするのを禁じられるなど、厳格な躾の下で育つ。
1980年(昭和55年)頃 5歳頃
幼稚園で級長に選ばれる。夏休みに、園児が一人一鉢の朝顔を育てることになり、自分の朝顔の成長が止まったことが気に入らず、幼稚園に忍び込んでよく育っている鉢と自分の鉢を入れ替える。そのことを先生に咎められ、級長バッチを剥奪される。
1982年(昭和57年)7歳 小学校二年生
国語の宿題で書いた「ぼくのランドセル」という詩が地元新聞に掲載される。
1987年(昭和62年)12歳 小学校六年生
人生の頂点。成績優秀、サッカー部ではずっとレギュラー。児童会長にも選ばれる。
初夏の少し前、教室で中学受験の問題集に取り組む同級生に影響され、中学受験を志す。
親に決意を話すと、近所の塾に入れられる。生徒は他に一人しかおらず、そのうち先生より速く問題が解けるようになる。
兵庫県の有名な進学校、私立六甲学院中学に見事合格(51期生)。中学受験に合格した子として地元で有名人となる。
1988年(昭和63年)13歳 中学一年生
中学ではサッカー部に入部、レギュラーとなるが、自分より上手い選手がいることに衝撃を受ける。成績は良く、三者面談で担任から「このまま頑張れば東大に行ける」と言われる。
一方で裕福な家の同級生との格差を感じさせられたり、片道二時間弱の過酷な電車通学による疲労、勉強と部活の両立で睡眠時間も圧迫されるなど、無意識のうちに心身は限界に達しつつあった。次第に勉強する前の整理整頓の〈儀式〉が病的なレベルになっていく(診断すれば強迫性障害のレベルであると後に精神科医との対談で指摘される)。
1989年(平成元年)14歳 中学二年生
暑い夏の日、学校に向かう途中で便意に襲われ、漏らしてしまう。学校のトイレでズボンと下着を洗って教室に入るも、臭いが周囲に漂っていることに気づき、無断早退する。
そのまま夏休みまでは普通に学校に通うが、夏休み明けの朝、宿題ができていないことを理由に学校を休み、以来六年間に及ぶ引きこもり生活が始まる。
1991年(平成3年)16歳
苦し紛れに高知県の名門私立を受験するが何も勉強していないので不合格。留年して六甲学院に籍は置いて中学三年生を二回やった後で退学。中卒となる。
コンビニのバイトを始めるが、地元の知り合いがやってきて好奇の目に晒される。実家から少し離れ隣町でアパートを借り、一人暮らしをしながら近所のコンビニで働く。
1992年(平成4年)17歳
父親の転勤に伴い、瀬戸内海の小島で父の社宅のアパートに暮らす。
1994年(平成6年)19歳
テレビで成人式のニュースを見て、急激に焦りを覚え、大検を受けるため実家に帰り、センター試験に向けて猛勉強を始める。
1995年(平成7年)20歳 大学一年生
センター試験を受けた数日後に阪神淡路大震災が起こる。センター試験の点数だけで行けるところを選び、愛媛大学法学部夜間主コースに入学。人に会いたくなかったので入学式には出ず、登校初日に合わせて引っ越す。
金丸という一つ上の学年の学生と仲良くなり、よくつるんでいた。夏はプールの監視員、秋から冬にかけては伊予柑農家での収穫など、二人で同じバイトをする。
金丸の誘いで、金丸の彼女が通う短大の文化祭で、二人で漫才をする。予想に反し大ウケ。調子づいて、二人で大阪の吉本興業の劇場で行われていたゴングショーに参加し、合格する。お笑い芸人になる決意をする。
1996年(平成8年)21歳 大学二年生
吉本が開催した全国的なお笑いイベントに参加。四国予選で、金丸が緊張してセリフがすべて飛んでしまう。帰り道、金丸が就職して小説家を目指すと話しているのを聞く。東京のNSC(お笑い養成所)に入る決意をする。東京の不動産屋に電話して、電話だけで住む家を決める。NSCの面接に合格し、松山の下宿を解約。周囲には黙って上京したので、失踪したと思われる。
上京し、部屋に入居できる日までの一週間を野宿してしのぐ。大塚の家賃1万5千円、四畳半一間のボロアパートに入る。
1997年(平成9年)22歳
東京NSC3期生として、赤坂見附TBSの近くの養成所まで北大塚から二時間かけて歩いて通う。当時の芸名は「ピュアぞー」、NSC時代の相方は「はいじぃ」(本名:蓜島朋岳〈はいじまともたけ〉)。
卒業公演を前に養成所をやめる。
養成所で同期だった市井昌秀(のち映画監督)と、市井の知り合いの樋口(面識なし)がアパートを訪ねてきて、三人でトリオを組もうと誘われる。グループ名「髭男爵」の命名は市井による。
消費者金融での借金が嵩み、利子が毎月二桁になったところで弁護士事務所に行って債務整理する。
家賃を下げるため、近所の安アパートを探し、家賃八千円の「勝浦荘」に引っ越す。三畳ほどの座敷牢のような部屋で、下の一階部分は大家の居住スペースになっていた。毎朝五時くらいに仏壇の前で大家(八十歳近い老婆)の唱える念仏が聞こえてきた。
結局この部屋に十年近く住むことになり、最終的には二年分の家賃を滞納した。
1999年(平成11年)24歳
市井と樋口とのトリオで約一年活動するが、結果を出せず、市井が脱退。改めて樋口と二人でコンビとしてやって行くことにする。
2001年(平成13年)26歳
〈ピュアぞー〉として『進ぬ!電波少年』の「電波少年的アンコールワットへの道の舗装」の企画に出演。カンボジアでの重労働により気を失って病院に搬送される。
2004年(平成16年)29歳
上田晋也(くりぃむしちゅー)から「髭でも男爵でもないじゃない」とツッコまれたことを機に、夏頃から「キャラつけないと売れない」と山田が貴族風の衣装をまとい、髭を生やしてネタをするようになる。この当時はひぐち君は「平民」の設定で普段着だった。
2005年(平成17年)30歳
二人とも貴族(男爵と執事)のスタイルになる。この設定になってからは、ツカミのボケとしてワイングラスを掲げながら「ルネッサーンス!」と声をかけ、二人がワイングラスをぶつけながら山田が「○○やないか~い!」とツッコむ流れが定番となる。
サンミュージック預かりとなり、深夜テレビなどへの露出が始まる。
2006年(平成18年)31歳
M-1グランプリで準決勝に進出し、敗者復活戦にて強烈な印象を残す。
2007年(平成19年)32歳
年末の『爆笑レッドカーペット』の出演をきっかけにブレイクを果たす。
2008年(平成20年)33歳
9月『ひげぼん』(髭男爵名義、グラフ社)※「どーよ」のテルによるイラスト
9月30日、「髭男爵 山田ルイ53世のルネッサンスラジオ」(文化放送)放送開始。YBS山梨放送他ネット、ポッドキャストによる配信と形を変えつつも現在に至るまで継続。
12月31日、第59回NHK紅白歌合戦(NHK総合)に出演。
2011年(平成23年)36歳
8月8日、一般女性(当時31歳、化粧品販売員)と結婚。8月8日が「髭の日」だったことから、妻の提案で同日に婚姻届を提出。
2012年(平成24年)37歳
7月4日、第一子(長女)誕生。
2013年(平成25年)38歳
4月、「はみだし しゃべくりラジオ キックス」(山梨放送)放送開始
2014年(平成26年)39歳
夏より女性アイドルグループ「まどもあ54世」のプロデュースを手がける。
2015年(平成27年)40歳
8月『ヒキコモリ漂流記』(マガジンハウス)
8月、『第1回 一発屋オールスターズ選抜総選挙 2015』で最多得票を集め、髭男爵が初代王者に選定される。
2017年(平成29年)42歳
2018年(平成30年)43歳
5月『一発屋芸人列伝』(新潮社)
「一発屋芸人列伝」で「第24回 編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞受賞。
8月『ヒキコモリ漂流記 完全版』(新潮文庫)
12月『中年男ルネッサンス』(イースト・プレス、社会学者・田中俊之との共著)
2019年(令和元年)44歳
6月11日、第二子(二女)誕生。
2020年(令和2年)45歳
10月『パパが貴族 僕ともーちゃんのヒミツの日々』(双葉社)
12月8日、吉田豪『豪の部屋』ゲスト出演。
2021年(令和3年)46歳
4月、「やまなし調ベラーズ ててて!TV」(YBSテレビ)放送開始
2022年(令和4年)47歳
4月、長女(小学校四年)に父親の正体が「髭男爵」であることを明かす。それまでは「フレキシブルな勤務形態のサラリーマン」という設定で胡麻化していた。長女はすでに5,6歳の頃から父親の職業について勘づいており、ネットで「山田順三」で検索をかけ、山田が「髭男爵」であることをほとんど確信していた。
5月、Youtube【街録ch】出演
11月、緑が丘小学校創立50周年記念式典に卒業生として招かれ、「本当の意味で卒業したのは緑が丘小だけなんです」と母校への思いを語る。
6年生の女子児童(12)は「山田さんが先輩で誇らしい。みんなの『あるある』にもつっこんでくれて楽しかった。50周年に立ち会えたのはすごいことだと思った」と喜んでいた。