INSTANT KARMA

We All Shine On

Young, Gifted and Blue

何をするにも、例えばお金がなくてもブルースはいつもいっしょにいる。ちょっと羽目を外したい時にもブルースはそこにいる。結婚してる男が夜遅く車で帰ってきて、奥さんに家に入れてもらえない時、猫がニャーンと鳴いている。わかるだろう、そういうときにブルースは生まれるんだよ。

NHK BS「山崎まさよしミシシッピを行く~ブルースの伝統を訪ねて」よりブルースマン・R.L.バーンサイドの発言

藤井風が過去に自身のYouTubeで公開したカバー曲について謝罪し、動画を非公開にするという出来事があり、ファンやネットをザワつかせた。

問題の動画は2018年にアップされたもので、m-floの「come again」とアメリカの女性ラッパーNicki Minaj(ニッキー・ミナージュ)の「Super Bass」をマッシュアップしたもの。

「Super Bass」の中に所謂「N」ワードを含む歌詞があり、それをそのまま歌っていたことに海外のファンから非難のコメントがついた。

これに本人が11月1日に英語ツイートで対応。不快にさせる意図はなく、全ては自らの不勉強によるものであるとのメッセージを発信。続けて2日付のツイートでも、「N」ワードの背景を知らずに使ったことを猛省。自らの非を全面的に認めたという。

実は上記の説明はすべて後になって知ったもので、例の動画も見ていないしニッキー・ミナージュの原曲も知らない。

この件に対する藤井風の迅速な対応と謝罪は、誠実で模範的なネットリテラシーを示すものという声が大きいようだ。Twitterに上げた謝罪のコメントに対しても、無知でやったことだから仕方がない、侮蔑の意図がないことは分かっている、といった彼を庇うような反応が圧倒的だった。

個人的にも彼の対応については申し分ないと思うし、早く吹っ切れて前向きに活動してほしいと願うのみだが、気になったのは、ファンの反応の中に、以前から懸念していた〈教祖化〉の気配が濃厚に見られるようになってきたことだ。

この際だから書くと、新曲の「グレイス(恩寵)」を聴いたときにもちょっと違和感があって、結局この曲はほとんど聴いていない。

この曲が出た時に「あまりにもそのまんま」だと書いたが、歌詞も曲もMVも含めて、そこはかとなく<定型句の罠>に陥っているような気がしたのである。

デビュー曲「何なんw」やファーストアルバムには存在した新鮮な驚きのようなものがそこにはなかった。

定型句と既存のパターンの中に安住する気配が感じられた。

振り返れば、セカンドアルバムには、既にその萌芽が見られたように思う。

この感覚に既視感のようなものを覚えたので考えてみると、椎名林檎のときもそうだったと思い当たった。

椎名林檎のファーストアルバムとシングル「幸福論」、「本能」は衝撃的だったが、セカンドアルバム以降はだんだん驚きが失われていった。

もちろんセンスと才能は有るので、ずっとクオリティの高い作品を出し続けてはいるのだが、<進化>は感じさせない。

だから不満があるとか注文をつけたいといった意図はまったくない。消費者としては好みが合わなければ聴かなければよいだけなので、マイペースに活動を続けてもらえればそれでいいし、失望とかも全然ない。椎名林檎は変わらず尊敬し続けている。

消費するための刺激としての進化や成長を求めるという心性じたいが悪しき資本主義リアリズムの表れかもしれないとも思う。

ただ藤井風の場合、椎名林檎以上のカリスマ感とナルシスティックな素振り(たぶん計算の上)をどこかで発展的に雲散霧消させとかないと、本人の資質には合わないはずの矢沢や長渕(あるいは中島みゆき?)の路線に迷い込みかねないという一抹の不安も抱かせる。

その一方で、トチ狂ったように<進化>を始めた星野源のような人もいて、無責任に見てる分には面白いのだが。