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ジャック・マリ・ラカン年譜(超暫定版)

※マルク・レザンジェ「ラカン現象」による

 

1901年(明治34年

4.13 パリの中流資産階級に属するカトリック家庭に生まれる。まもなく第二子の弟が生まれるが病気で早逝する。

1903年明治36年

12.25 妹マドレーヌが生まれる。

1908年(明治41年

12.25 弟マルク=フランソワが生まれる。

1932年(昭和7年

精神医学をクレランボーに師事。パラノイア性精神病に関する学位論文を上梓。

この年から1938年までルドルフ・レーヴンシュタインの下で教育分析を受ける。

1933年(昭和8年

この年から1939年にかけて、ジャン・イポリット、ジョルジュ・バタイユ、レモン・クノー、ジャン・ポール・サルトルなどの著名人の講義や、ヘーゲルに関するアレクサンドル・コジェーヴの講義に出席。ミッケル・ボルク・ヨコブセンは「ラカン、絶対的な師」という著書で、ラカンの主要な概念はコジェーヴの「ハイデガーを通じてのヘーゲルの読解」に由来すると指摘する。

1934年(昭和9年

当時唯一のフランスにおける精神分析グループ「パリ精神分析協会(S・P・P)」(1926年設立)に加入。

ミノタウロス」誌にブルトン、エリュアール、ルヴェルティ、ピカソ、マッソン、ダリらと共に寄稿。ダリから「臨界パラノイア」の概念のヒントを与えられる。

1936年(昭和11年

「国際精神分析協会(I・P・A)」の主催する学会で、「鏡段階」に関する発表を行うが、開始後まもなく学会長アーネスト・ジョーンズに中断させられる。後にこのときの発表をもとにしたテクストを出版。

1938年(昭和13年

アンリ・ロワン編集のフランス百科全書に「家族」の項を寄稿。精神分析家のエドアール・ピションから「党派的な隠語と同時に個人的でもったいぶった態度からなるこけおどし」と批判される。

1948年(昭和23年)

「パリ精神分析協会(S・P・P)」の教育委員会委員となる。

分析家養成のためにS・P・Pが創設した「精神分析学院」の責任者に指名される。

1953年(昭和28年)

フランソワーズ・ドルト、ダニエル・ラガーシュらと「フランス精神分析協会」(S・F・P)を創設。国際精神分析協会(I・P・A)はS・F・PのI・P・Aへの加入を拒否。

1964年(昭和39年)

I・P・AがS・F・Pを公認するための条件として、S・F・Pが教育分析家のリストからラカンの名前を抹消。ラカンは教育活動の場をサンタンヌ病院から高等師範学校に移し、「セミネール」を開始する。

6月、「フロイトへの回帰」を掲げ、自らの学派「パリ・フロイト派」を結成。

1966年(昭和41年)

それまでの三十年間に起草されたテクストを集めた『エクリ』が出版される。

1968年(昭和43年)

高等師範学校からパンテオンの法学部に教育の場を移す。

1969年(昭和44年)

パリ・フロイト派の創設者の一人フランソワ・ペリエが脱退し、「第四グループ」を創設。

1980年(昭和55年)

パリ・フロイト派を解散。ラカンの娘婿ジャック・アラン・ミレールが「フロイト大義派」を結成。

1981年(昭和56年)

9.9 腹部腫瘍により死去。