マリリン・モンローの思い出
浪越 徳治郎

先週の日曜日、藤沢の労働会館に講演を依頼されて出かけた。神奈川県下の経営者の集りだった。時間が少し早く着いたので、応接間で待っていたら、司会者が入ってきた。
「先生―今日の集りは年輩者が多いので、それに朝から固いお話ばかりで肩が凝っているので、ここらでクダケタお話を」
との注文である。さて、どんな話をしようかと考えていたら―
「そうそう、 先生はマリリン・モンローを指圧したそうですが、 そのモンローのお話をどうか・・・」
というわけで、モンローとの出会いから彼女の肉体の魅力、エピソード等を織りまぜて約一時間半。
これがまた、大受けでヤンヤの大喝采であった。
マリリンモンローという女優は不思議な魅力を持った人で、 彼女が死んで十七年も経つというのに、いまだに映画にテレビに雑誌に、何かと話題が絶えないのだから偉いものである。
そもそも、 私と彼女との出会いは、 いまから二十五年前の、 昭和三十年二月九日のこと。
サンフランシスコ・シールズの監督、フランクオドールから電話で、ジョー・ディマジオと新婚旅行に来日したモンローが、胃ケイレンで苦しんでいるから、大至急治療にきてくれという。彼は私にギックリ腰を治してもらって以来の交際だ。
世界の男性憧れの美人、二〇世紀の恋人といわれたモンローを指圧する絶好の機会だ。私はタクシーで帝国ホテルへ駆けつけた。
ディマジオもフランクもオロオロするばかり。私は、
「OK、ここは私にまかせて室外に出なさい」と。

そして私は治療にとりかかった。モンローの傍に片膝をつき、ガウンを剝ぎにかかる。
ガウンの下には何もつけていない。 シャネル五番の馥郁たる香りが私の鼻孔をくすぐる――こうして世紀の美女の肉体が一糸もまとわぬ姿で私の目の前に横たわっている。
しかし、鑑賞しているいとまはない。
私は、やおら左の肩甲骨の下に指をあてる。ここに胃ケイレを治すツボがあるのだ。力を加えると、彼女はかすかにうめく。
私は指先に全神経を集中して、一心不乱に押さえた。十分間ほどおさえたであろう―痛みに堪えて固くなっていた筋肉がほぐれ、四肢の力の抜けていく様子に、私は彼女の痛みが去ったことを知った。
ここで手をとめて帰ってもいい。 が、しかし〝世紀の美女〟を指圧するせっかくのチャンスを、 たった十分間で終わらせるテはない。で、私は背中にあてていた手を、存分にくびれた胴から豊かな腰へと移していった。
そのときになって初めて私には、彼女の肉体を鑑賞する余裕が生じた。
それにしてもなんと素晴らしい肉体であることか! 裏日本の雪の肌を、いまひとつ抜けるように冴えざえとさせたシミひとつない白磁の肌―その肌に女盛りの脂がしっとりとのっている。このときモンロー二十九歳。まさに女の盛りだ。私は職業柄、何万人という女の肌に接したが、これほどの肌は他に知らない。
首から肩をおさえる。うしろ首筋のところにシコリがある。不眠症の特徴である。
ついでに体を仰向けにひっくりかえす―― 嗚呼、まぶしいほどの景観!
寝乱れた金髪、それがわずかにまといつく顔は、目も口もうっすらと開き、すべてをこちらに委ね切っている風情である。 化粧気の全然ない顔は映画でみるよりずっと愛らしい。
細い首、華奢な肩。しかし乳房は豊かだ。両の腕のつけ根にわずかな茂み、どちらかといえば毛の薄いほうで、肌は、どこもかしこもスベスベしている。
思い切りくびれた胴から豊満な腰にかけて絶妙な曲線。タテ長の臍からふくよかな下腹をのぼってくだった先に、見てはならぬ金色の叢(くさむら)――そこに私は、もち合わせのハンカチをかぶせた。なにはともあれ、これ以上に気の散るのを防がなければならない。
左の太股から指圧にかかる。上側、 内側、 外側とやって、左から右足、足のゆびまでほぐしておいて頭、ついでに顔から胸――。私は両の掌を両の乳房にあて、ゆっくりとこねまわす。
後で人によく聞かれた。
「そのときお前は、 男として感じなかったか」
と。 私は、いつもこう答える。
「冗談おっしゃっちゃいけません。何ごとによらず一流に達した人間には、そんな心の乱れなんて、ございません。それは凡夫の考え」
と。
普通の男なら感ずるであろう下半身の興奮を、私は指先に感じたのである。
まさしくこれは「ゆびの喜び」「ゆびの法悦」であった――
けっきょく、モンローは日本滞在中、わたしの指圧を七回受けた。
一九六二年八月五日、マリリン・モンローは死んだ。私が帝国ホテル二〇五号室で指圧した日から約七年たっていた。
彼女の死を知ったとき私は、なんと勿体ないことを! と思った。自分をつかまえてくれる男性を、ついに得ることのできなかった淋しさ、容色の衰え、睡眠薬の常用からくる胃痛-―それらに責め立てられた挙句の自殺だったのだろう。
それにしても死なすべき体でなかった。 もし私が傍にいれば、死なせずにすんだのではないか――といまでも思うのである。

もっと生きてほしかった マリリン・モンロー
淀川長治
昭和二十九年の二月にマリリンはディマジオと来日した。『紳士は金髪がお好き』とそのヒットにつづいての「百万長者と結婚する方法」が封切られたころであった。
そのまえの一九五三年作のヘンリィ・ハザウェイ監督の「ナイアガラ」で彼女はモンロー・ウォークという歩き方で評判を高めた。
昭和二十九年(一九五四年)の来日は、まさにマリリン・モンローが一躍人気を盛り上げたついているときのクライマックスであった。
それで彼ら新婚夫婦の宿舎帝国ホテルは群集で埋まり、ファンの一人がホテル前の池に押されて落ちこんだ。これがさっそくニュース映画になってその上映の映画館ではそのニュースに派手な拍手がわいた。
私は当時、雑誌記者として多くのプレス・マンと一緒に、正式に彼女のプレス・ミーティングに出席した。そして彼女はディマジオと姿を見せた。その彼女は笑顔をあふらせて、そして衣服はしとやかな外出着であった。ケバケバしい女優というみなりではなかった。
ディマジオが、ひとわたり記者たちを見廻した。彼はニコリともしなかった。むしろ腹立しげな様子を見せた。そしてその長身を折り曲げて指定の席にマリリンと並んで腰を下ろした。二つの椅子は、いかにも花婿花嫁のための華やかな椅子かに見えていたものが、ディマジオの不きげん顔でその椅子が瞬間にして私には死刑台の電気椅子かに見えた。
さらにディマジオが目前の机上のマイクをさっと手にとりあげて机の下に足て押しこんでかくしてしまったとき記者たちは声を出して笑ってしまったのだが、その瞬間にたちまち冷い空気がホテルのその部屋(だったかロビイの一隅であったか記憶はたしかてないが、そのあたり)を包んだのであった。
このときのマリリンを私は生涯忘れることは出来ない。
彼女はまずディマジオに笑いかけ、それから記者たちに顔を向き変えて、なんとも言葉にはいい現わせぬ可愛いい表情を作って「さあ、なんでもお答えいたしますわ」と片手を胸に当て、ディマジオの無礼を目いっぱいに詑びているその目で晴れやかに笑ってみせたのであった。
新婚ということで花婿は一分一秒を花嫁と二人っきりでありたかったのであろう。ディマジオのその子供っぽさがわかるのであるが、この結婚は長つづきすまいと私は感じとりマリリンがなんともいじらしかった。
「マリリン・ウォークは貴女の考案ですか」「アラ、私、生れて六ヵ月目から、あんな歩き方でしたわ」「貴女の尊敬するお好きな女優は」「イングリッド・バーグマン」「男優では」「チャールス・ロートン、ハンフリィ・ボガート、マーロン・プランドオ・「お好きな監督は」「ジョン・ヒューストン……"アスファルト・ジャングル"に使ってくださったから」
「あなたの美の秘訣は」「よく眠ること。美は何よりも健康であること」
「結婚生活が第一ですか、女優生活が第一てすか」この記者の質問はディマジオを前にしては少しいいすぎた質問であった。日本の記者はスィートに欠けて何でも平気で質問してしまうときがある。彼女はもちろん「私はむかしから一番望んているのは、ハピィ・ホーム・ライフです」と答えた。きっとこれは正直な答えだと私は信じている。
彼女がもしもノーマ・ジーン・ベーカーの本名で、ロサンジェルスで家庭の母となっておれば、三十四歳の若さで死んでしまうという運命には見舞われはしなかったと思う。
初めて映画のスクリーンからでなく、肌の匂いのなまなましいマリリンを目のまえに見た私は、これがあのマリリンかと見とれたくらいやさしい彼女であった。
私は帝国ホテルの記者会見のあと、特別の写真をとり、特別のサインをも求めて、それのポーズをとってもらうことにした。雑誌紀者でさえなければ、このような時にそのような求めは避けたかったのだが仕方がない。ところがマリリンは"これでいいの"を連発した。少しでも私がお役に立てばというサーヴィスを見せた。このときにはディマジオはもうあきらめたのか私たちの少し離れなところからボサッと私たちを見つめていただけだった。
「七年目の浮気』を見てもこの「お熟いのがお好き」を見ても演出者の神様であるワイルダーはモノの見事にマリリンのすべてを掴み出した。マリリンの生地を見抜いての使い方の妙。彼女がこの二作に見せたお人好し女は「百万長者と結婚する方法」の近眼のメガネ娘と同様まったく可愛い女のすべてをたたえた女であった。
そして私はマリリン・モンローはまさにそのような女であったにちがいないと思った。その彼女にして、その育ちがあまりにも悲惨でありすぎたその不幸!
貧しさのあまり幼児から転々と親せきじゅうをタライ廻しにまわされて、そのあいだ母は自分一人が生きるに情いっぱいの生き方をせざるを得なかった。マリリンは、いやノーマ・ジーンは親せきにとってもまったくの邪魔者だった。この貧困の悲惨が彼女の心に生涯消えぬ烙印を押した。
こわいということ、恥ずかしいということ。悲しいということ、誰かに守られたいということ。これが彼女の性格に発展していったと思ってもまちがいではあるまい。
一説に依ると彼女は親せきの家で、 枕を顔に押しつけられて、殺されかけたという。これは脚色された伝説であろうが、痛ましい幼年時代であったことは想像できる。
彼女がまた少女時代に早くもロサンジェルスのお巡りと結婚してしまったのも、守られたい、そのせんざい意識がそんな相手を選ばせたのではあるまいか。
一九六二年八月五日、彼女は睡眠業を呑みすぎて死亡した。電話をかけかけたままコト切れた死に方であった。自殺決行のあとこわくなったというのであろうか。
思えば「アスファルト・ジャングル」でジョン・ヒューストンに見出され、そのジョン・ビューストンの「荒馬と女」が彼女の最後となった。
私はマリリンをセックス・シンボルとして追いまくるあらゆる人を心の底から憎悪する。マリリン・モンローはスィートそのものの女優であった。
1954年2月来日時のマリリン(右手の指に怪我をしたため固定している)

モンローが死んで、この世からやさしさが失せた。モンローが死んで、この世からぬくもりが失せた。モンローが死んで、この世からほほえみが失せ、モンローが死んで、この世はとわの闇にとざされた。
だけど、かわいそうなモンロー、いつもお前の心は冷え切っていたのだろう、いつもお前の胸は悲しみに満ち、お前の瞳は涙でくもり、お前の唇はあえいでいたのだろう。だからこそお前は、あんなにもいたわり深く、同じように悲しく冷たい世の中の、憐れな同類にほほえみかけていたのだ。
暗さをひめたものだけが、もっとも明るく輝き、そして、悲しみをいだくものだけが、もっともやさしく唄う。燃え尽きてしまったモンロー、すり切れてしまったモンロー、与えることだけしか知らなかったモンロー、さようなら
野坂昭如「マリリン・モンロー・ノーリターン」

おお、見よ――
かの河は黙して流るる。
昨日の誓ひを一片も抱かず、
われらが涙をも顧みずして。
水面に映るは過ぎし日の影、
されど影は手に掬へぬ夢。
愛とは何ぞや?
朝露のごとく、
指のあひだより零れ落つるものか。
ああ、我が心よ、
何ゆゑ汝はなお岸辺に佇む。
すでに舟は離れ、
櫂の音さへ霧に失せたるに。
人は申す、
「時こそ傷を癒す薬なり」と。
されど時は盗人にも似たり。
癒すふりして、
残された名残までも奪ひ去る。
されど、かの流れを呪ふまい。
河はただ河として、
月光をまとひ、定めのままに進むのみ。
帰らざるものは帰らず、
留まるものもまた無し。
ならば我も歩まん。
胸に痛みを宿したるまま、
風の語る追憶を友として。
もし再び天の帳の下にて
汝と巡り逢ふことあらば――
その折こそ、
別れの言葉なく、
ただ静かに微笑まん。