War Is Over

 if you want it

山田順三(2)

山田ルイ53世(こと山田順三)一発屋芸人の不本意な日常」を読む。

”自ら〈負け人生〉と語る日々をコミカルに綴った、切なくも笑える渾身のエッセイ。”

元・一発屋芸人による自虐ネタ語りは、部分的には従来からよくあるパターンだと思うが、ここまで執拗に語り続ければ、一つの〈新しい〉ジャンルの誕生となる。

一発屋芸人の味わうさまざまな悲哀、地方営業における「ロカハラ」の実態、番組で「一番売れてたときの月収」を言わされ驚嘆されるが笑っているタレントの方がよほど稼いでいるという現実、ひな壇に半日座って一言も振られず終わる精神的苦痛、家ロケでスタッフから受ける屈辱的な仕打ち等々。

山田が「ルネッサンス・ラジオ」で喋ってきたネタを本にまとめたものともいえる(僕はこの番組のリスナーではないので確認はできないが)。

しかしここには、ただ「ラジオで喋ったネタを文章化したもの」では片づけられない、文章そのものの魅力がある。

文筆家としての山田の能力は、「ヒキコモリ漂流記」一発屋芸人列伝」で既に証明済みで、どちらも名著だが、その文体は微妙に違う。前者のほうが私小説的、後者のほうはルポタージュ的(水道橋博士「芸人春秋」のスタイル)で、両方を巧みに使い分けている印象がある。

この一発屋芸人の不本意な日常」は、上記二冊をブレンドしたような、一段と完成度の高い文章となっている。

「自分を一番低いところに置く」のは私小説の常道で、西村賢太田中英光もこのスタイルである。山田の場合は「自虐」のレベルまであからさまに自らを貶めることで「笑い」につなげている。いわゆる私小説と山田のような「芸人スタイル」の文章の違いは、後者では読者へのサービス精神が露骨に(時には過剰に)表現されているところにあり、それが行き過ぎると芸術的感興を削ぐということにもなる(もともと芸術的感興などというものを狙っているわけではないのだから当然ではある)。

西村賢太「人もいない春」の文庫版解説を書いていることで(僕の中で)有名な女優・南沢奈央が、この本についても書評を書いているので転載する。

一発屋の花火

南沢奈央


「ピークを知る男」として、最近よく東京メトロの駅構内や電車内でお見かけする、お笑いコンビの髭男爵さん――シルクハットを被り、髭を蓄えて恰幅の良い体で笑みを浮かべる山田ルイ53世さんと、黒縁メガネに蝶ネクタイ、ワイングラスを片手にぎょろっとした目を向けるひぐち君さん。
 見るたびに思う。画力(えぢから)が凄い。遠目で見ても、髭男爵だとすぐに分かる。
 わたしがちょうど高校から大学へ上がろうという、2008~2009年頃。「俺たち、オフピーク!」と語るインタビューの動画を見ると、髭男爵のピークはこの時期だったそうだ。当時、「エンタの神様」や「爆笑レッドカーペット」といった数々のネタ番組が人気を博していて、わたしも御多分に漏れず、テレビの前でお腹を抱えて笑っていた。「○○やないかーい!」とワイングラスをチンと鳴らしての優雅なツッコミは、未成年だったわたしも普通のグラスで我慢して真似したものだ。
 もう12年も経ったのか、と驚くのはわたしも同様。わたしもまさに同時期、ピークで忙しかったのだ。
 2008年、高校3年生の時に、大学の受験勉強に専念したいから仕事を控えたいと考えていたときに、突如いただいた、連続ドラマ主演&映画主演という大役。女優を始めて、まだ2年やそこら。ひよっこもいいところだ。そんな大役を受け止めるほどの器がないのは自覚しつつ、有難いことこの上ない。わたしは、仕事も受験も全力でやることに決めた。
 学校の休み時間には台本をこっそり開いて台詞を覚え、逆に撮影現場の空き時間では参考書を読みこんだ。オンオフするほどの境界線もない、ぐちゃぐちゃな日々だった。
 それでもなんとか行きたい大学に合格し、撮影もすべて終えて、卒業式の日に久しぶりに高校へ行ったら、携帯のカメラを向けられ、サインを求められた。わたしは有名人になっていた。
 正直、この2008~2009年の記憶があまりない。余裕がなくて、気づいたら周りの環境が急激に変化していたのだった。

 そしてその頃、ブレイク真っ最中の髭男爵さんも……という話ではなく、オフピークである現在を綴ったのが、山田ルイ53世さんのエッセイ『一発屋芸人の不本意な日常』。
 近年、山田さんの著書は書店でよく目にしていて気になっていたし、実は家に積読されていた。最近東京メトロで目が合って、ようやく手に取った次第。
 タイトルの通り、不本意なことばかりの日々。「ただの妬み嫉みの類」と本人は言うが、独特のユーモアも持ったフレーズの数々とリズムの良い文章によって、その妬み嫉みが陽のオーラを纏っている。また、かつてブレイクしたときのエピソードが出てきても、これは山田さんの性格なのか、ブレイクから時が経っているからなのか、一歩引いたところで見ているような視点や冷静な分析が興味深い。不本意な日常が、楽しく読めるのだ。これも山田さんにとって不本意だったら申し訳ないが。
 一発屋の芸人さんたちが“縁起物”として扱われるという話には、笑ってしまった。「一発当てた」ということで、競艇場やパチンコのイベントに呼ばれることが多いのだとか。
 他にも、“人生のしおり”として「そういえば、あの年はあの芸人のあのギャグが流行ってたな~!」と人々の記憶に寄り添う存在にもなる。そういえば、事務所に入ってすぐ、忘年会のためにギター侍の物まねを準備していた(が、風邪を引いて結局披露せぬまま終わった)なぁ~、とつい、わたしも懐かしんでしまう。
 こうして一般人に余興の場などで笑いを取るために真似されやすいのも、一発屋の芸の特徴。料理の腕前にかかわらず、誰でもご家庭で本格的な味を再現できる〈レトルト食品〉であり、そのような芸を生み出した一発屋芸人は〈発明家〉だという表現には膝を打った。
 娘さんとのエピソードの数々は、なんだかぐっとくる。娘の前では「変則的に働くサラリーマン」という設定。だからテレビに映った自分を見て「パパだー!」と大騒ぎしている娘には、「パパがテレビに出てるわけないでしょ!?」と冷や汗をかきながら否定している。プリキュアの声優をやったときには、プリキュアの敵を演じて稼いだお金で、娘にプリキュアの玩具を買ってあげ、さらにはプリキュアになりきった娘に攻撃され、気前よく倒されるという、プリキュア連鎖による奇跡のコラボが実現。微笑ましい一場面だ。そして「あとがき」での、娘さんとのやり取りには、不覚にも涙がこみ上げた。
 “一発屋芸人”と呼ばれ、自らでもそう名乗り、“なりたい自分”になれずとも「なれた自分でなんとかやっていく」という気概が感じられる。ときどき発せられる、皮肉めいたことや愚痴の先に、必ずすべてを笑いに転換させるという明るいエネルギーがある。
 一発目は終わったかもしれない。だけど、導火線についた火がじりじりと燃えすすんでいる。大きくなくてもいい。今あるものを打ち上げる。次はどんな花火を見せてくれるのだろうかという、未来への期待感を抱くような一冊だった。(2020/12/04)

この書評を読んだ山田が、自分のラジオ番組のゲストに彼女を呼んでいる。

西村は、南沢とラジオで共演して、〈脈あり〉と見たのか(必ずしも変な意味ではなく)、文庫本の解説を依頼して、その後、彼女のラジオにゲスト出演している。

こんなところにも、なんとなく西村と山田のシンクロを感じたりする。