宇多田ヒカルさんが「寂しさや辛さは、乗り越えなければならない山ではない。それも一つの心象風景だ」と言っていたが、本当にそうだなと感じる。無理に寂しさを埋める必要はないし、辛いことを無理に解決する必要もない。そこに善悪も存在しない。『ただそこにあるもの』として共存していくしかない。
— 所ジョージ(Tokoro_George:芳賀 隆之).bot (@tokoro_george01) 2022年8月29日
太田省一『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書、2021年)を読む。今はそういう流れ。
本書の全体の4分の3は、たけし、タモリ、さんま、そしてダウンタウンの略伝で占められていて、著者独自の観点はあまり感じられなかった。
一番興味深いのは最後の部分で、社会構造の変化によって「お笑い」に求められる質が変化していることについての考察。
「一億総中流」という言葉に代表されるように、社会そのものが同質的だった時代には、笑いを共通項として共に盛り上がる「同質性の笑い」が社会に浸透する。
しかし、マイノリティの存在を無視できなくなった時代においては、「みんなが多数派だから、ちょっときついことを言っても、”まあいいよね”で許された」ものが、許されなくなり、他者との差異を前提に利害調整をしながら、そのプロセスを笑いとして表現する「相互性の笑い」が必要になってくる、というのが著者の主張である。
ダウンタウンが出てきた時にも、「いじり」は「いじめ」ではないか、という意見があったし、ビートたけしのギャグも高齢者などへの差別を助長するという声があった。
だが現在求められるPC的配慮の基準は、当時とは比較にならないほど厳しくなっている。テレビのバラエティ番組がどんどん不自由になっているという声はもうずいぶん前から聞かされている。
著者が「第七世代の笑い」の特質とする「相互性の笑い」というのは、要するにコンプラが厳しくなった時代に適応するバラエティのあり方の問題にすぎないと考えれば、さほど目新しい観点でもない。
今の社会を「格差と多様性の時代」などとは呼ばず、端的に「退行の時代」と指摘することで、「『ダウンタウン松本の時代』が日本人が本格的に退行してゆく時代の始まりを告げる、日本と松本の蜜月」であり、「『映画監督松本人志の時代』は、その負債に苦しむ日本と松本の倦怠期である」と論じた菊地成孔の視点(『ユングのサウンドトラック』河出文庫版)の方が遥かに鋭く、刺激的である。
本書のタイトル通り、「すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった」と断言できるまでに、1980年代以降の日本は文化的に末期症状にあったということだ。
この四十年以上にわたって、この〈ビッグ3〉を超える文化的存在感を持つ人物を誰一人生み出せなかったのだから(いや、松本人志がいるじゃないか、とはお願いだから言わないでほしい)。
しかし、この半世紀の彼ら”お笑い芸人たち”の活躍が、冒頭に掲げた芳賀隆之(所ジョージ)のような境地に大衆を導いたのであれば、全てが無益な”から騒ぎ”というわけでもなかったと言いうるのかもしれない。
追記:と昨日書いたのだが、冒頭のツイートは偽物(パクツイ?)らしい。
やっぱり<から騒ぎ>でした。
チクショー!