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かつてラカンは、1950年代のある日、日本の精神分析の父というべき旧知の古澤平作に一通の書簡を送った。そこには、「虚構の自我を精神分析の体系の基礎に置く自我心理が欧米の精神分析を誤った方向に導いている。自我が幻想であり無であることの洞察は、仏教の最大の悟りのテーマである。仏教徒であり精神分析家でもある日本の分析家たちには、この私の考えとの親和性が高いのでは…」という趣旨が書かれていた。

小此木啓吾フロイト思想のキーワード」(講談社現代新書)より

生まれてきた子供は初め自我を持たない。

子供はまだ自分の身体の統一性を得ておらず、自分の身体があるという意識さえ持っていない。自らおしゃぶりしている自分の右手と母にしがみついている左手はまるで関係のないものでしかない。だが、あるとき鏡に映った自分を見てそこに映った身体を一つの身体だと同定したり、母の身体を見てその身体が母という他者を受け持っていると同定したりするようになる。子供は、鏡像として映っている自分を一個の他者として受け止め、あるいは母の身体を他者として受け止め、それを鏡像として捉えることによって、その他者の中に自己像(自我)を見出す。

人は自分を自己像として捉えられるようになるまでは、何者でもない空虚な主体でしかない。そこに他者像の鏡として、想像的な自己像を結ぶことで、自我というものを紡ぎだし、世界を開くための糸口とするようになってくる。これがラカンのいう「鏡像段階論」である。

では、生まれつき盲目の人は、どうやって自我を認識するのか。

 

ラカンによれば、欲望の根源は、母乳をもらいたいという幼児期の欲求であるという(千葉雅也の解説による)。その意味で言えば、自分は母乳をもらったことがなく、生まれた直後に手術室に入れられ母と隔離されたので、そのような欲望の原初的な抑圧が自我の出発点にある。

他人や世の中に何も期待しない、という習性の原点がここにあるのだろうか。

政治家が正しいことをするとか、裁判によって真実が明らかになるとか、行政は市民に奉仕するなどということを、片時も考えたことがなかった。

何か知らないことを誰かに聞いて、その人が正しい答えを教えてくれるという発想がない。間違ったことを言うのではないかという疑いが常にある。だから道に迷った時にも人に訊ねることを最後まで躊躇する。

P.D.ウスペンスキーフロイト精神分析についてこう批判している。

夢に関する文献の中に、私はいわゆる「精神分析もの」、つまりフロイトとその弟子達による理論は含めていない。第一に、私が夢に関心を持ち始めたときには「精神分析」はまだ存在していなかったし、第二に、私が後に確信したように、「精神分析」の中には価値のあるものや普遍的なものは何もないからである。それは私の主張や結論をまったく変えるものではない。そして私の結論は「精神分析もの」とは正反対なのである。


この問題に再び立ち戻らずにすむように、ここで次のことを述べておく。

精神分析」の唯一の功績は、それまで「心理学」の主題には入らなかった新たな領域を心理学が研究しなければならないという原則を明確に定式化したことにある。しかし当の「精神分析」がこの原則に従わなかった。それは、「精神分析」は導入の最初の段階で、一連の非常に疑わしい仮説と一般化を行い、次の段階で、それらをドグマ化することによって自らの発展の可能性を閉ざしてしまったからである。これらのドグマ化された仮説から生まれた特殊な「精神分析」用語は一種の隠語となり、彼らが自分たちを何と呼ぼうと、そして互いのつながりと、共通の源から来ていることをいかに否定しようと、その隠語によって「精神分析」を認知することができる。


この隠語の特徴は、実在しない現象に関する言葉から構成されているということである。しかし精神分析の信奉者たちはそれを実在するものとして受け入れている。これらの架空の現象の上に、そしてその架空の相互関係の上に、精神分析は一九世紀始めの「自然哲学」にも似た非常に複雑な体系を作り上げた。それは、例えば非常に正確で詳細な「鬼神論」のような、実在しない現象の記述と分類から成り立っている中世の学問にも似ている。


その歴史を研究すれば明らかな通り、最新の精神分析におけるすべての主要な特徴は一八八〇年代半ばにフロイト博士が観察したたった一つの症例から演繹されたものだということは精神分析の面白い側面である。この一人の女性患者の観察例が精神分析とそのすべての仮説の中心基盤となった。しかも興味深いことに、その観察はフロイト博士自身が後に批判した手法を用いて行われているのである。その手法とは患者を催眠状態にして、彼女に普段の状態では答えられないような彼女自身についての質問をすることであった。疑いなく正確に明らかにされたことだが、この実験の以前も以後も、この手法は何の成果も生まなかった。なぜなら、この種の質問をしつこく続けることによって、催眠者はそれと知らずに患者に対して答えを暗示したり、催眠にかかった患者が空想的な説や架空の物語をでっち上げることになるからである。このようにして有名な「ファーザー・コンプレックス」が発見され、それと共に「マザー・コンプレックス」が、そして後には「エディプス・コンプレックス」などの諸々のまやかしが生み出されたのである。


この精神分析の悲喜劇的な側面に関する主な事実はステファン・ツウィッグというフロイトの擁護者によって書かれた本に述べられている。幸運にも著者はこれらの事実をその意味にまったく気づくことなしに取り上げている。
精神分析の最近の傾向は、自らを「心理学」と名乗り、心理学一般の名の下に語ることである。


おかしなことに、心理学の仮面の下に、精神分析はいくつかの国で学問としての科学の領域に浸透し、医学校や医学施設の必修科目となり、学生たちはこの沼地の中で試験を通過することを強いられている。


現代思想における「精神分析」の疑いなき成功は、その考え方の貧困さ、科学的心理学の手法の臆病さ、その理論を実践しようという傾向のまったくの欠如、そして何よりも、普遍的体系の痛切な必要性が感じられていたことで説明がつく。 


また、一部の文学や芸術サークル、そして一部の社会階級で精神分析が人気を博しているのは、精神分析が同性愛を正当化し、擁護しているためである。

 

P.D.ウスペンスキー「新しい宇宙像」第7章夢と催眠術の研究について

この文章が書かれたのは1905年から1929年にかけてである。

ウスペンスキーの夢についての分析は改めて見る。