INSTANT KARMA

We All Shine On

天使のサンバ

小坂忠は、細野晴臣を聴いていく中で聴いた。

日本のロックの最初期、細野らと結成したエイプリル・フールのボーカルとしてスタートし、なんといっても代表作は「ほうろう」と思う。これは70年代ロックの名盤のひとつ。

名曲「しらけちまうぜ」小沢健二がカバーしたことで90年代の渋谷系のリスナーにも知られた。自分もこのときに知った。

ゴスペル・シンガーに転身してからの「CHEW KOSAKA COVERS」「PEOPLE」も名盤。いずれも細野晴臣はじめ、ティン・パン・アレーのメンバーが参加している。

彼が信仰に目覚め教会に通いゴスペルを歌うようになったきっかけは、家族の事故だった。以下は小坂忠文藝別冊「マーヴィン・ゲイによせた文章の要約である。

1975年の「ほうろう」のツアーがひと段落して家でくつろいでいる頃に、一人娘が全身に熱湯を浴びるという事故が起きた。クリスチャンだった妻の祖母の勧めで生まれて初めて教会に祈りに行った。

その一か月後に、ひどかった火傷が癒されるという奇跡が起こったという。このことがきっかけで神にについて考えるようになり、本当に神がいるのだったら知りたいと思った。

それで聖書を読み始め教会の礼拝にも通うようになった。やがて自分が求めていたものがここにあることを知った。神の愛と神の赦しこそ自分の求めていたものだった。

洗礼を受けてクリスチャンとしての新たな人生が始まった。日本中のいろんな教会に呼ばれて歌いに行った。しかし次第に教会に矛盾を感じるようになった。しかしキリストに対する思いは変わらず、1991年には教会の牧師となってキリストに仕えるようになった。

私がクリスチャンになった頃のキリスト教界には成功思想というものが流行っていた。信仰によって成功を手に入れようと多くの人が影響を受けていた。まるで成功した人が立派な信仰者であるかのように受け止められていた。自分は疑問を感じた。

そして、自分が選んだのは人に成功者として認められることよりも自分に委ねられたことをたとえ成功しなくても忠実に行うことだった。

テレビドラマのサウンドトラックで、ジャパニーズ・シティ・ポップの名盤でもある気まぐれ天使を聴きつつ、ご冥福を祈る。

波の音

入院して四日目の夜、看護婦たちが用があり、私だけが父の枕元に立っている短い時間があった。父が私の顔に目を向けていた。不意に突きあがるような思いが胸に来て、私は父の頬に顔を寄せると、“父が好きだ”と言った。”好きでたまらないのだ”と言った。たまりにたまったものが、一時に堰を切って流れ出したように、私はその言葉を繰り返した。

父は一寸うなずくと、笑みを浮かべた。目と口元に浮かんだ、やさしい、何とも言えぬ嬉し気な表情、その純な幼児のような嬉し気な表情を目にした瞬間、私の目から涙が溢れた。

これは広津和郎の娘・広津桃子が書いた父の追悼文からの引用である。

なぜこの文章が印象的だったかというと、あの小津安二郎「晩春」という映画の原作が、広津和郎「父と娘」という小説だからだ。

「晩春」の感想は以前ブログに書いた。

この映画における原節子の過剰とも思える演技が印象的だったのだが、あの演技がまさに〈正解〉だったのだ、と上の文章を読んで分かった。

ブレインフォグと川端康成と女たちと

最近眠りが浅くなっているのか、朝起きてからもずっと頭がぼんやりしてスッキリしない。ブレイン・フォグBrain Fogというのはこういうことを言うのかと思ったりする。

この状態を初めて自覚したのは去年の秋ごろ、コロナのワクチンの二回目を打った後のことで、今年の三月に三回目を打った後から酷くなった気がしていて、ワクチン陰謀論は採らないが、何か因果関係があるんじゃないかとの疑念も起きないでもない。とはいえそれを追求しても詮無きことだろう。単なる老化の可能性も十分にある。

晩年の川端康成睡眠障害に苦しみ、強い薬を使いすぎて仕事ができなくなったことを苦にしていたという。川端が自殺したのは七十を過ぎてからなのでまだまだ自分はそんな年じゃないのだが、ついそういうことを考えてしまうのは、今日読んだ本とも関係がある。

「追悼の文学史」(講談社文芸文庫編)川端康成に対する追悼文は、武田泰淳中村真一郎円地文子丹羽文雄、大庭みな子、佐多稲子井上靖竹西寛子、小田切進、舟橋聖一が載っている。訃報から間もない時期に書かれたものばかりで、当然ながら故人を非難するような文章はない。

小谷野敦川端康成と女たち」(幻冬舎新書を面白く読んだ。タイトルから連想されるようなスキャンダルめいた内容ではなく、しっかりした川端の作品論である。小谷野敦の小説評は歯に衣着せずバッサリ評価しているのが読んでいて気持ちよく、好みの問題もあるので必ずしもすべての意見に同意するわけではないが、この人がいいと言う小説はたいてい間違いがないので読書の指針にしている。

この本によると、川端が死んだときに五味康祐が「新潮」臨時増刊号に「魔界」という小説を載せ、これが川端の批判、いや誹謗中傷に近い内容だという。この小説に引用されている一休禅師の「仏界入り易く、魔界入り難し」という言葉が今なおひどく安直に川端論のキーワードに使われていると小谷野は憤っている。

川端の没後五年して臼井吉見「事故のてんまつ」という本を出し、そこに川端が晩年に安曇野出身の若い女性をお手伝いとして大変かわいがり、その女性が辞めて帰ってしまったことを苦にして自殺したという憶測が書かれていて、遺族との訴訟沙汰になり、絶版となるという事件があった。その経緯は小谷野の現代文学論争」(筑摩選書)に詳しく書かれていて以前読んだ記憶がある。そのときは臼井の言い分が的を射ているので遺族が反応したのでは、と感じたが、今は川端の自殺はやはり睡眠障害睡眠薬の影響(それに関連する鬱病などの症状)ではなかったかと思っている。

先日NHK-BSで再放送されていた、川端と三島の関係を扱ったドキュメンタリーの中で、川端が三島に「ノーベル賞を自分に譲ってくれ」と言ったというような証言が取り上げられていたが、小谷野はそんなはずはないと否定している。自分も同感である。

ノーベル賞の受賞直後、ハワイ大学から日本文学講座の講師として招かれた時の逸話を、「源氏物語」の現代語訳で有名な円地文子が紹介している。

ところで、ハワイの川端さんは広義の題目に源氏物語を選まれていた。

一週二回の講義日になると、まことに厭そうに、源氏の注釈本の必要なページを、そこだけ破って、持って出かけられたそうだ。(中略)

川端さんは「桐壺」のはじめの方について話され、殊に口語訳の部分について、細かく指摘された。

例えば、

注釈書の通釈部分で、一番最初の、

いづれの御時にか」を「どの御世のことであったか」と訳してあると、川端さんは、

「この『ど』がいけない」

といわれたそうだ。

恐らく濁音が文章を汚くするのを厭われたのだと思うが、私は、こういう鋭い語感によって捕らえられた「源氏」の口語訳が、せめて一巻でも、残せたならばと、今となっては永遠にとり返せぬ愚痴がやはり心に浮かんで来るのである。

『ツェッペリン飛行船と黙想』事件(2)

前回、暁の孫のブログに依拠して書いた、2012年5月23日の話し合いの模様が、「あかつき文学保存会」会報に会側の視点から書かれているので引用する。

「あかつき文学保存会」会報第五号に掲載された「解散の経緯」より


 「上林曉の文学資料を公開し保存する会」(略称「あかつき文学保存会」)は2012年6月30日付総会(持ち回り)での会員投票により、一年後に解散することを決めました。(中略)
 まことに不明ながら、それは2012年5月23日に突然起きました。この日は、かねて上林暁の作品集出版を企画していた出版社からの協力要請で、上林作品をめぐる諸状況について関係者らが自由に意見を交換する場としてもたれていました。
もとより、出版契約となれば著作権者と当事者間でなされるもので、保存会として何ら関知するものではありません。
 しかし保存会が上林作品に強い関心を持ち相応の実績を持つことを知るがゆえの協力要請であり、読者のひとりとしてどういう作品を読みたいか、また読んでもらいたいか、未発表作品にはどんなものがあるかなど意見を交わすにやぶさかではないと考えました。(略)
 このことは23日の冒頭にも明言し、この前提に立って、同席した(三名)がこもごも個人としての意見ないし感想を述べ、また保存会として取り組んでいる上林作品の公開、保存、研究の状況についても説明しました。
 ところが突然、これら発言に不快感を露わにした上林暁の孫・大熊平城さんから著作権保持者の優位性を強く主張する発言があり、同時に上林暁の妹・徳広睦子さんの手元で一貫保持保存されてきた上林暁の生原稿をはじめて関連資料を大熊平城さんの手元に移し替えるとの表明がありました。
 当初は、いかにも唐突な発言であり、真意がどこにあり、具体的に何を目指しているのかも見えませんでした。しかし、この場は何かを決めたり、議論して結果を出したりする場ではないので、言うだけ、聞くだけに止まり散会となりました。
 ただこの事態、前後振り返りますと、若干入り組んでいまして、当の23日以前の段階で大熊平城さんと当出版社の上林暁担当者から当会代表のサワダオサム氏(滋賀県草津市在住)へぜひ訪問したいとの意向が伝えられ、その後なぜか音信途絶え、再度またという保存会にとっては迷惑などたばたがあり、このやり取りの中で、大熊平城さんから届いたサワダ氏宛ての手紙(5月26日付)が事態をより明確にすることとなりました。
 「次に天沼の徳広睦子宅にある資料についてです。資料の所有権は著作権と同様、上林暁の子供たちにあります。彼らの委託を受けて徳広睦子が管理していましたが、数年前より睦子の老衰が進みましたので、私がその役を引き継いでいます。私はそれと同時に、保存会及びそれと関係の深い二つの出版社(夏葉社、幻戯書房)に対する遺族側の窓口役を勤めています」
 「現在私と母とで天沼の睦子宅の資料を、より安全かつ適切に保存するために、川崎の拙宅に移動しつつあります。整理も行い、研究に利用できるような環境を整えていくつもりです。・・さんはこの資料のことを大層ご心配のようですが、我々がきちっとやりますのでご安心ください」
 「現在『あるオールドジャーナリストの回想』を判読しているとのことですが、個人誌に発表する前に、お手数ですが判読した文章をこちらまでお送りください。その際にそれに該当する左手原稿のページ番号をお知らせください。こちらでも照合してみます。他のノート類についても同様にお願いいたします」
 これは形はサワダ氏宛の私信ですが、内容は当保存会にかかわるものであり、宛名のサワダオサム氏は当保存会の代表です。当保存会に対する遺族の一人(窓口役と自称している)からの明確な意思表示と受け止めました。
 したがって、保存会としても事態を見極め、緊急に対応を決めると同時に、保存会の先行き、存立そのものについても決しなければならないと判断しました。
 判断にあたっての要点は
 ①上林暁の旧宅にあった文学資料は現実に大熊平城を「窓口」とする直系遺族の手に移り、すべて管理されている。
 ②今後、遺族の手元にある上林暁の文学資料を利用するときは遺族の認可が必要とされ、その成果を発表するときは事前に遺族の目を通させるよう求められる。
 ――の二点です。
 緊急の幹事会は6月14日、東京で開きました。代表の萩原茂ほか・・、・・が出席、療養中で滋賀県草津在住の代表サワダオサムとは常時連絡を取り合いました。
 ①については事態をそのまま認めるほかありません。もともと当保存会は、上林暁の文学資料が上林暁の死後、一部が高知県黒潮町上林暁文学館に寄贈されたほかは確固とした公開・保存・研究への動きが起きないまま徳広睦子さんが独り生前のままに保持してきた労苦に共感して立ち上がったものです。その設立基盤である環境が一変し、当保存会独自の展開が難しくなった事態を踏まえれば、既に当保存会の役割は果たしたと言っていいでしょう。(略)先行き部分に不透明な不安があるとしても、遺族の中にとまれ、責任管理の意志があり、現実に管理されているとすれば重く、前向きに尊重されるべきです。
 ②については、忽せにはできない問題が多々あります。本来、文明、文化の所産は広く自由に活用されるべきものです。半面創造者個人にも、創造にいたる生活者としてのコストがあり、そこの折り合いをつけるために制限的に設けられたのが著作権です。ここを本末転倒してはややこしくなり争いの所以となります。
 上林暁研究にあたっても、さまざまな人たちがさまざまに研鑽、努力を重ねてきているわけであり、その成果発表にあたっても事前に何等の検閲を受けるべきものではなく、新たな成果、新たな著作物として扱われて評価されるものです。(後略)

『ツェッペリン飛行船と黙想』事件(1)

上林暁の未発表原稿を集めたツェッペリン飛行船と黙想』という書物をめぐっては遺族と出版社の間で裁判になり、暁の娘の子(孫)が作成したブログにその経緯が書かれている。

過去の記事を遡って読んでみたが、時系列を整理すると以下のようになる。(敬称略)

2007年8月幻戯書房(当時は有限会社)が、暁の作品6編を含む『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』青柳いづみこ川本三郎監修)を出版。同書は萩原茂(高校教諭、文学研究者)による暁の妹・徳広睦子のインタビューも掲載している。幻戯書房はこの本の出版に際して著作権継承者である暁の子らに連絡を取らなかったという。

2009年11月、前述の萩原茂と上林暁との対話」の著者サワダオサムが中心になって、「上林曉の文学資料を公開し保存する会」(略称「あかつき文学保存会」。以下、単に「保存会」という。)が設立された。

会則によると、「本会は徳広睦子さんが長年にわたり保管してきた上林暁文学資料等の維持管理にかかる負担を感謝して軽減、解消し、かつ将来にわたり安定して保存し公開できる枠組みの構築を目的とする。あわせて関連する資料の収集を広く求め、必要と認められる物は保存、公開の対象に加える」とされている。

保存会は杉並区天沼の徳広睦子の家にあった暁の原稿や日記、井伏鱒二太宰治等からの葉書、稀覯書、写真等の一部を杉並区立郷土博物館に展示した。またサワダオサムは日記類や未発表作品を保存会の会報や自身の個人誌に発表した。

保存会の設立や上記の活動について、暁の子らは承諾なしに行われたと主張している。

2010年5月、郷土博物館本館で開催された写真展に、暁の未発表作品「あるオールド・ジャーナリストの回想」の原稿が展示され、それを見た幻戯書房編集部長Tが未発表作品集の出版を社内で提案した。この案は了承され、Nが担当者になった。

2010年10月17日、暁の孫(長女の子)大熊平城が阿佐ヶ谷文学講座に出席した。会が終わった後、大熊と萩原は睦子の家で話をし、萩原は、以前からときどき睦子宅を訪れていたが、睦子の管理能力が認知症のため低下しており本棚からなくなっている本もあることを指摘した。この後暁の子らは話し合いの結果、睦子に代わり大熊が睦子宅の資料等を管理することとし、大熊が遺族を代表して保存会に対応することとした。

2011年2月13日、上記の内容を大熊は電話で萩原に知らせ、睦子宅から資料等を持ち出すときには自身に連絡するよう求めた。萩原は了承した。

2011年6月5日幻戯書房編集部で暁の本の出版担当になったNは、Tから睦子に連絡を取ってみるように言われ、睦子に電話した。電話口には介護士のYが出て、資料に関しては萩原に聞いてほしいと言った。そこでNは萩原に相談し、保存会に協力を要請した。
2011年6月14日、Nは萩原と一緒に睦子宅へ行き、「あるオールド・ジャーナリストの回想」のコピーがあったので持って帰った。萩原はNに保存会の会報を送付した。16日、Nはメールを送り、礼を述べると同時に原稿は判読不能で出版できないと言った。
7月22日、保存会が開催した睦子の誕生会でNと大熊は初めて顔を合わせた。その際、Nは出版に関して何も言わなかったという。

10月16日、萩原が暁の友人・濱野修について阿佐ヶ谷図書館で講演し、大熊は濱野修の子・安生と保存会幹事Oと初めて会った。
また同年10月6日から翌2012年1月22日にかけて杉並区立郷土博物館分館で保存会が主催して上林暁と濱野修に関する展示会が行なわれた。2011年12月18日に杉並区立郷土博物館分館で行なわれたギャラリー・トークには暁の遺族・親族が多数出席した。この頃までは保存会と遺族たちとの関係は一応良好だったようだ。

2012年3月23日、萩原は大熊に電話して、幻戯書房が暁の未発表作品集出版を希望している旨伝えた。大熊は同意し、原稿が足りない可能性を考慮して全集未収録作品を加えるよう提案した。
4月22日、萩原は大熊に電話し、睦子宅にある原稿をNに貸してよいかと尋ねた。大熊は承諾した。次いで萩原は睦子宅で見つけた暁の日記をNに貸してよいか尋ねた。大熊は著作権者(暁の長女と次女)の承諾がないと返事したが、萩原は日記のコピーをNに渡した。それらの資料に基づきNは日記に未発表作品・全集未収録作品計18編を加えた書籍の出版企画書と構成案を作成した。
5月8日、萩原は大熊に電話し。暁の著書出版の打ち合わせを23日に行ないたいと伝え、大熊は出席の返事をした。

大熊は、保存会のもう一人の代表サワダオサムから5月8日付の手紙を受け取った。そこには日記を入れるべきだと書かれていた。その数日後にサワダの個人誌復刊第5号が届き、そこには暁の読書日記の一部が引用されていた。また「あるオールド・ジャーナリストの回想」を判読して本にするつもりだとあった。また別の文章には「上林暁の孫である大熊平城氏に現在は上林暁著作権が移っているやに聞く」、「上林暁の身内であろうが、だれであろうが、任意で未発表の資料を発表するべきではない」と書かれていた。

2012年5月23日、萩原の勤務先である吉祥女子中学・高等学校で暁の著作刊行に関する打ち合わせが行なわれた。出席者は大熊と幻戯書房(当時株式会社)のN、萩原を含む保存会の役員3名の計5名であった。

まずNが会社を紹介し、企画を説明した。創業者が暁のファンだったので出版したいということだった。大熊は、全集補遺なのか選集なのかと質問したが、明確な返答はなかった。
大熊は、著作権継承者がプライバシーを理由に日記の出版を拒絶したと伝えた。未発表作品と未収録作品を優先するべきだから日記出版を考えるのは時期尚早だという彼自身の意見も述べた。それに対し萩原は、保存会による資料公開や目録作成等の活動の成果を強調し、日記出版に応じるよう求めた。そして、応じないならもう協力しない、目録も使わないでほしいと言った。
大熊は原稿を見せてあげたのだから目録くらい作るのは当然ではないかと声を上げて反発した。保存会が睦子ばかりを持ち上げて暁の子らを無視しがちであることに従来から反感を感じていた大熊は、今後は睦子の家の資料を自身の川崎の自宅で保管すると宣言した。保存会が協力しないならそれで構わないというのが大熊の考えであった。
大熊は、濱野修の新居に関する随筆が濱野家に不快感を与えたことを例に挙げて、どんな作品でも著作権者がチェックするまでは出版を認めることはできないと言って説得を試みたが、萩原らは納得しなかった。

つづく

 

私小説はネットで発表

文芸評論家で私小説作家でもある小谷野敦氏は、『私小説のすすめ』という本の中で、これから私小説を書こうとする人はネットに書くのがいいと書いていた。つまり私小説などというものは売れないので商業出版で出してくれるようなところはないから、どうしても書きたい人は個人のホームページやブログなどで発表するのがよいということだ。
文芸社のように自費出版で出してくれる出版社もあるが、知人に配るような目的でもなければわざわざ大金を払って書籍化する必要もない。そもそも私小説など知人に読ませたくないような内容だから配るなどというのは論外であろう。
現にプロの作家ではない人が私小説をブログに書いている例はあるようだ。よほど面白いと思わない限りそういうのを読む趣味はないが、書く人にとってはやむにやまれず書かずにはおれないものだろうし、そういうものでないと面白くならないと思う。
「こんなことを書いてしまっていいのか」という、自分の人生の恥部のようなものをさらけ出すことが私小説のダイゴ味であると小谷野敦氏は言っている。過去の文豪の書いた私小説はいずれもそういうものだ。田山花袋の「蒲団」、島崎藤村の「新生」、島尾敏雄の「死の棘」など、歴史に残る作品はいずれも、人間のみみっちさ、どうしようもなさ、犯罪には至らないまでも他人には決して言えないようなことを、小説という形で、世の中に発表している。そもそも「私小説とは何か」という議論もあって、ルソーの「告白」は私小説なのかとか、私小説というジャンルは日本に独自のものか、などというややこしい論争には関わらないことにする。とにかく書き手の個人的な生活の中で切実なことを客観的な作品という形で発表した小説、というシンプルな定義でいいのではないかと思う。
肝心なのは、ただ書くだけではなく、何らかの形で発表するということだ。発表の形は文芸誌への掲載や出版に限らず、それこそブログやホームページでもよい。とにかく、日記とは違って、「他人の目に触れる形にする」というのが重要なことだ。作品という形にすることで、ひとつの客観性が生まれる。ただの自慰的な自己満足にとどまらない表現になる。少なくともそういう表現を志向したものになる。昔は同人誌に乗せたり自費出版したりするしか発表の方法はなかったが、今はブログやホームページがある。だから誰でもこの定義をみたす私小説が書ける。
翻って自分自身に書けるか、と自問しても、書ける気がしない。そこに人生経験の浅さがあり、時折物事に表面的に感動することはあっても存在の奥底を揺り動かすような実感と経験が欠けていることを自覚するのみである。悲惨な境遇を書いたからといって必ず感動的な作品になるとは限らないが、自分の場合は何もなさすぎる。あまりにも、どうってことのない人生を送ってきた。貧困も病気も女性問題も経験したことがなく、外面的には何の問題もない生活を送っている。少なくとも、他人が見て同情したり共感したりするような深刻な問題は抱えていない。内面的には色々とこじらせて宗教めいたものに走ったりもしたが、他人が読んでとりたてて面白い話でもないだろう。むしろ忌避される類のことである。
そうなると自分には書くネタがまったくない。巧みな文章能力でもあれば、日常の何気ない光景の中から、しみじみとした、あるいはちょっと心に残るようないい話が書けるのかもしれないが、自分にはそのような文才はない。
ありのままを書けばいいのだ、と言われても、そのありのままとは何なのか。自分の家族やら仕事やら日常生活やらについてありのままに書くことは簡単なようで至難だということは、私小説をこれだけ読んでくれば分かる。

Zeppelin and Meditation

サワダオサム「独断的上林暁論」が面白かったので、「わが上林暁上林暁との対話」も借りる。こんなに面白い本が読まれないのは勿体ない。まあ上林暁自身もうほとんど読まれない作家だから仕方ないか。太宰治好きの又吉直樹が紹介して多少知名度が上がったようだ。

この本は書店では手に入らず、この図書館だからこそ所蔵されているもののようだ。だが内容はとても貴重で広く読まれるべき、というより今の自分にとって読む価値のある本である。どんなにいい本でも読むべき時機というものがある。去年はあれほど夢中になった小島信夫の小説や評論を今読む気がしないように、今夢中になっている本も時機を過ぎれば読もうとは思わなくなるのだろう。

サワダオサムが上林暁に託して語っているのは、文学というのは人間の真実の生きざま、「ひとの世の悲しみ」を書くことであり、書くということは、悲しみを見つめ、悲しみに耐え、悲しみの底にある人それぞれの辛さ、嘆き、怒り、恨みの底に流れる人類普遍の生きて在ることを書くことである。上林暁は、それを己の文学精神のよりどころとした。
上林は東大英文科を出て文芸誌「改造」の編集部に勤めるが、小説家になることを志して退職、妻子とともに故郷に戻る。実家で三年ほど苦境を舐めたのちに再び上京、オンボロの借家に暮らし文学で生計を立てることを決意。しかし生活は苦しく、夫婦間の不和や生活への疲労から妻が精神を病み、入院、そして病院で亡くなる。この間の経緯を綴った「病妻もの」が上林の文名を高めたのは皮肉なことである。

「聖ヨハネ病院にて」が生涯の代表作とされる。しかし上林暁の小説にはもっといいのがたくさんあるし、脳溢血で倒れてからのもののほうが良いといわれる。二度倒れているが、二度目の後は半身不随となり不自由な左手で書いた。判読困難な文字を妹が清書し、作品にすることができた。
サワダオサムは妹・睦子が、舞台裏を見せてはいけないという筑摩書房の社長の言うことに従わずに回想録(「兄の左手」)を出したり、上林の日記を全集に収録する際に自分にかかわる記述を削除するなどのエゴイズムを大胆に指摘している。あるいはこうした率直すぎる物言いのために出版界からハブられているのだろうか。新聞業界では反体制側の活動家として有名らしいし。

上林の未発表原稿を集めたツェッペリン飛行船と黙想』という書物をめぐっては遺族と出版社の間で裁判になって揉めたりしたようだ。そういうことを死後の上林は知る由もないが、彼の文学は父母兄弟や妻子などの犠牲によって成り立っていたところもあるので、こういった親族によるトラブルも仕方ないのかもしれない。

暁の孫が作成したブログには、「ツェッペリン飛行船と黙想」の出版をめぐる裁判の経緯が書かれており、その中にサワダオサムも登場人物の一人として出てくる。

この裁判の第一審判決はウェブ上で読むことができる。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/752/085752_hanrei.pdf