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第72期王将戦第2局

大阪府高槻市で行われた藤井聡太王将と挑戦者羽生善治九段第72期王将戦第2局は、先手番の羽生九段が勝利を収めた。

第1局は途中までかなりいい勝負だったのを終盤で藤井王将の自力に競り負けた感があるので、若干のリードで迎えた本局2日目は、羽生九段にとっては相当に神経を使う闘いであったと思う。

1日目に、持駒の金をソッポのような場所に打つ羽生九段の奇手が出た。AIが示す最善手ではあったが、まず人間には浮かびづらい手で、羽生九段がこれを左程時間を使わず指したことから、研究ではないかとの声も挙がった。

藤井王将にとって想定内だったのかどうか分からないが、これに対する応手が難しく、AIが最善と示す手は、持ち駒の飛車角を自陣の効きの悪い場所に打つ、受け一方で悉く人間には指しづらい手ばかりで、さしもの藤井王将も指せず、攻勢に出たが、羽生九段にきっちりと間合いを見切られて及ばず投了となった。

人間の感覚では、「たとえこれ以外の手は全て負けだとしても、こんな手だけは指せない」と思うのも無理がない。藤井王将の棋士としての美意識が許さなかったのだろう。逆に言えば、そんな手を指さなければ負けという局面に持ち込まれた時点で、既に勝負はついていたのだと言っても良い。

羽生九段にとっては完勝譜といえるのではないか。2日制勝負では普段以上の驚異的な強さを見せる藤井王将相手にこのような勝利を収めることができるとは、羽生ファンでも予想していた人は少なかったと思われる。

まさに現代将棋の頂点と呼ぶにふさわしい名局だった。

気の早い話だが、この第2局を見れただけでも、このシリーズはもう十分だと思った。

とはいえ今週末には早くも第3局が行われる。今度は先手番となる藤井王将に、羽生九段がどんな将棋で臨むのか。観る者にとっては贅沢すぎる至高の勝負劇はまだ続く。

A Life of a "People's Enemy"

藤原賢吾「人民の敵 外山恒一の半生」(百万年書房、2023)を読む。

著者は西日本新聞の記者で、2020年のコロナ禍をきっかけに外山にインタビューし、連載記事を書いた。この本はそれをまとめたものらしい。

外山への確かな共感をベースにしつつも、彼のネガティブな言動や思想的な限界にもきちんと言及していて、バランスの取れた評伝となっている。

この本を読むのは、すでに彼についてあるていど知っていて、彼にシンパシーを感じ、評価している人が多いと思われるので、本人が書かないであろう事実(あるいは彼自身のバイアスのかかった見解によって記述される事実)がきちんと描かれていることは高い評価に値する。

彼の承認欲求の強さが母親との関係に起因することなど、これまで気づかなかった指摘もそちらこちらにあって興味深かった。

個人的に一番興味深かったのが、2021年に美術評論家福住廉の質問に答えて<暴力論>と<面白主義>について語られた外山の見解であった。

この発言は全文引用してもいいほど重要だと思うが、出たばかりの本を長々と引用するのは憚られるので要点だけを述べると、世の中を本気で変えるには暴力的契機が不可欠であるという認識の下で外山が採用している<面白主義>は、一つには従来の中核派などの過激な学生運動との差異化を分かりやすくするため、もう一つは時代の要請による便宜的手法であって、今の若い世代はもっと状況が深刻だからシビアな方法を用いてよい、というのがその趣旨だ。

これまでは状況の深刻さがなんとか誤魔化されてきたが、これからは誤魔化しが利かなくなる。日本も近い将来、香港やミャンマーやその他の世界各地に起きているような暴力的契機ぬきには政治運動の実践が不可能となるような時代に入るだろう。

近年の外山の活動は、そうした時期に行動する若い世代のために、運動の歴史と方法に関する基本的教養を与えることにより後継者を育成することにシフトしている。それはある種、フランス革命以前に起こった啓蒙主義のような役割を果たすものといえるのではないか。

また、資本主義以外の選択肢のない「資本主義リアリズム」の時代において、「もう一つの世界の可能性」を垣間見るために外山のような活動家がさまざまな政治的想像力を駆使して行ってきたその実践活動は、真の意味における「現代アート」であるだろう。

外山恒一吉田松陰なのか、大杉栄なのか、<西郷どん>なのか、その最終的な評価はこの評伝の続編である「革命家 外山恒一伝」が書かれる時までに明らかになるだろうか?

弱度の強度

雑誌「ユリイカ」の高橋幸宏特集に収録された菊地成孔「最後のニューロティカをコピーするために図書館に行く。

その記事の中で言及されている香山リカ『きょうの不健康』(河出書房新社、1996)も書庫から出してもらって読む。ジャック・ラカン伝』(エリザベト・ルディネスコ、河出書房新社、2001)もついでに読む(というより眺める)。

ラカンが1963年と1971年に来日し、京都奈良の寺院仏閣に感動し、自宅の離れに日本家屋を作ったというエピソードを知る。いかにも、という感じだが、彼はフロイトの技法論」の講義を禅の教え(あらゆる体系化の拒絶)への言及から始めている。

フロイトの技法論上下」に力技で取り組む。

アンナ・フロイトメラニー・クラインとの闘い、アメリカの自我心理学との闘い、フロイト(のテキスト)への惚れ込みようの凄さ。転移、抵抗、充溢したパロール、象徴的関係の導入。なんとか自分なりの言葉で説明できるくらいに肝を掴みたいのだが。

外は晴れているが風が冷たくて寒かった。

妻が目が翳むというので眼科に行ったが、加齢によるもので眼底出血やら網膜剥離などの病的な変化ではないとのこと。老化で硝子体に濁りが出て、網膜に影をつくっているということらしい。幸い焦点の部分ではないので読書に影響はないらしいが、視界にすりガラス様のボケがあるとか。こっちも他人事ではない。

強度、強度が求められるファシズム的社会で、「弱度」のよさを表現できた高橋幸宏のような人はもう現れないだろう、と菊地は上記の記事で書いているが、今はもう「弱度」どころか「喪とメランコリー」の時代に入りつつあり、今年の初めに亡くなったのは象徴的な出来事だと思った。

昨日発表のあった芥川賞は、二作同時受賞で、報道などによればどちらも地に足の着いたリアリズム小説のようなので、文芸春秋を買って読もうと思う。

Déjà Vu

3日前のブログに、「ロック世代の黄金期を担ったひとびとがもう七十代から八十代になっているのだから、われわれはこれからこうした訃報にますます頻繁に接することになるだろう」と書いたばかりだが、今朝はデヴィッド・クロスビー(David Crosby)の訃報が飛び込んできた。

自分にとっては、デヴィッド・クロスビーといえば、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングであり、名盤『Déjà Vu』である。

クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングは、ザ・バーズのデヴィッド・クロスビー、バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス、ザ・ホリーズのグラハム・ナッシュ、そしてニール・ヤングが結成したスーパーグループで、スーパー・グループにつきものの内部対立ですぐに分解してしまった。残したスタジオ・アルバムは『Déjà Vu』だけで、これはロックの歴史におけるベスト・アルバムの一枚といってもいい名作である。中でもこのアルバム収録の「ヘルプレス」はニール・ヤングの代表曲といってよい。

・・・などとロックの教科書的なことはいくらでも他所で読めるので、個人的なことを書く。

昨日も、松村雄策の本を読みながら、「ロックが好きな人でニール・ヤングが嫌いな人はいない。ニール・ヤングが嫌いという人は、要するにロックが嫌いなのだ」という自作テーゼを頭の中で反芻していた。

ニール・ヤングについてはいろいろ書きたいことがあるが別の機会に譲って、クロスビーについて書こうとしたが、正直何も浮かんでこない。

訃報を機にネットで彼の記事を読んだら、後半生はドラッグ中毒や銃器法違反で実刑判決を受け服役するなど相当に波乱万丈だったようだ。

そんな中で、60年代に関係した女性が生んだ実の息子と劇的な再会を果たし、息子(ジェイムス・レイモンド)との共作やプロデュースで数多くの作品を発表するようになったという。知らなかった。

2021年にも作品を発表しているが、ここ最近は長く病床に就いていたようだ。

81歳ということだから、天寿を全うしたといえるのだろう。

今日は『Déjà Vu』と彼のファースト・ソロアルバム『If I Could Only Remember My Name』を繰り返し聴こうと思う。

ただの愚痴

今から半年くらいインボイスでそうとう世の中ギスギスしそう。

もちろんワタシは登録なんぞしやせん。

しょせんサラリーマンとか富裕層には関係ない話ですけど。

毎年確定申告の電子申告にはイライラ度MAX。

今年はカードリーダーでハブられる。毎年何かでひっかかる。

インストールしたら訳の分からない文字化けするし。

 

今朝のニュースで、ダボス会議で「日本経済をなんとかしろ会議」をやってるとか。

1990年には世界第一位だった競争力が、今では30位に落ち込んでるとか。

この30年以上かけて、日本はゆっくりとしかし着実に衰退していった。

この「ゆっくり」と「着実に」が煮て食ってやりたいほどに苛立たしい。

陰謀論に家族など身近な人がはまってしまった場合どうするか、専門家が以下を勧めてました。
* 笑わない、バカにしない
* 科学的根拠などを示しても逆効果
* 難しい時代だね、みんなが混乱しているよね、と共感を表す
* 無条件の愛情を示して、昔の楽しい思い出などを話す

以前働いていたtのことを小説にできないかとあれこれ思い巡らすのが通勤時の暇潰しになっていたときもあった。

筋立てを考えると、ある日tから郵便が届く。中にはある医師からの手紙が入っていて、自らの罪を告白している。だがもう彼はこの世にいない。死ぬ前に、以前手紙を送ってきた謎の女であるtに送ってきたのだ。世間に直接出すのではなく、他人の手を介して運命に委ねることにしたのだ。手紙を受け取ったtは、もうすっかり連絡を取っていないとはいえさすがに自分の手元に留めておく気にはなれなかったので、ここに送ってきたと言う訳だ。これは今から10年後にしてもいいし15年後でもいい。

その医師の手記を受け取って、自分(語り手)はどうするか。もはや本人は死んでいるので刑事責任を問うことはできない。しかし真相を世間の前に明らかにする必要はある。ということで小説という形を取って公表することにした。

罪の告白と言えばドストエフスキーの「罪と罰」だと思い当たり、読み返そうかと思う。手記を挿入するという形式は夏目漱石の「こころ」でもある。というより「こころ」には「罪と罰」の影響がある気がする。医師が自殺するということにしたらますます「こころ」の真似みたいになる。

尤もtの住所に手紙を送っても転送しないと届かない。LINEのアドレスも教えたので直接会って渡されたという形にするか。

殺人の動機は何か。知的障害を負う息子。植松思想。
告白の動機は何か。最初はもっと早く自首するはずだったが警察に説得された?最初は容疑者として取り調べ。取引。警察幹部との協議。当局の意向に沿った法改正に向けて動くことが条件。犯人の出所後も警察との約束があるので下手な動きはできない。告白にはリスクが伴う。郵便物もチェックされている。直接手渡しするしかない。そのための偽装工作。

罪への呵責の念? すべてを言ってしまいたいという欲求?
犯人にされた男はどう思っているのか? 実際にやった犯罪もある。その後の重大犯罪については取引。
要するに国家ぐるみの隠蔽による冤罪事件。
だがこれではドストエフスキーではなく松本清張になってしまう。

tとの時系列メモ読み返すと、やはりろくでもない女だったなと思う。犯罪がらみの男とばかり付き合う(薬物と詐欺)。そして金にうるさい(「カタギの舌」ではないので金銭感覚が狂っている)。時々懐かしく思い出したこともあるが、やはりいかなる意味でも「いい思い出」みたいに扱うべきではなく、今後何があったとしても絶対に関わるべきではないと思い直した。

物事を突き詰めて考えすぎると、最終的にはニヒリストになるか自殺するしかなくなる。それ以外の道を教えてくれたのが菊地成孔のような人であり深沢七郎のような人である。彼らは次の段階に現れた自分にとってのグルのような存在である。もちろん崇拝の対象ではない。人間的に尊敬しているわけでもない。ただ彼らのような人が存在してくれることへの感謝があるだけだ。

人は他人の苦しみには感情移入できるが、喜びには感情移入できない。だから多くの文学作品はどうしても暗いものになる。だが音楽は喜びの共感を生み出す。そこに音楽の特権がある。

エレクとリック

外山恒一の伝記は週末の愉しみにとっておくことにして、先にフロイト技法論集」ラカンフロイトの技法」を読むことにする。〇〇の空き時間に頭を切り替えて読まねばならぬのでなかなかキツいものがある。とりわけラカンはキツい。「丸の内サディスティック」ならぬ霞が関マゾヒスティック読書。

松村雄策の「僕の樹には誰もいない」は、読み終えるのが勿体ないので、少しずつ読んでいる。

 

フロイトが「分析における構成」という小論の中で、患者が忘れてしまった早期記憶の断片を提示する場合の例として次のようなものを挙げている。

あなたは●歳までお母さんを無制限に独占できる唯一の存在だと自分のことを思っていたけれども、もうひとり赤ちゃんができて、深い失望を味わった。お母さんはしばらくのあいだあなたから離れ、そして再び現れた後もあなたのことだけにかかりきりになることは二度となかった。お母さんに対するあなたの気持ちはアンビバレントなものとなり、あなたにとってお父さんが新たな重要性を帯びるようになった

これを読んで真っ先に思い浮かんだのが、千葉雅也「エレクトリック」であった。

精神分析治療において例えば上のような「構成」を紋切り型のように患者に当てはめることは最も不適切な行為だし、小説などの文学作品をエディプス・コンプレックスの図式から解釈しようとする批評が陳腐なものにすぎないことは百年前から指摘されている。

しかしながら、「エレクトリック」における主人公・志賀達也の母親に対するアンビバレントな思いや父親への強い愛着を説明するのに、この構成はあまりに適合的であり、著者もこの図式を意識して描いたのではないかと思われる。つまり、「エレクトリック」の描く家庭像はきわめて古典的なものであり、ほぼ類型的といってもよい。

にもかかわらず、そこに<特異性>が認められるのはどうしてなのか。

前にも書いたように、この小説の特異性と達也が目覚めさせつつある同性愛的傾向とは直接、というよりまったく関係がない。達也がインターネットを通じて同性愛者のコミュニティと接触し、その世界に飛び込む狭間にある(彼が東京に行けばそれが全面展開されることは著者の作品を読んでいる読者なら誰もが知っている)描写はたしかに類型的ではない。だが他の作家が同じようなテーマについて書いてもこの小説のようにはならない。

そこには何か決定的な違いがある。

それを言葉にするのが文芸批評の仕事であるが、自分は批評家ではないのでこれ以上は書けない(そのうち妄想するかもしれないけど)。

envieonment and psychology


「今年が始まって僅か17日間しか経っていないことが信じられない」と菊地成孔が書いているが全くその通りだと感じる。年明けからプライベートでも色々なことがあったが、ジェフ・ベック高橋ユキヒロの立て続けの訃報にも心が揺れる。ロック世代の黄金期を担ったひとびとがもう七十代から八十代になっているのだから、われわれはこれからこうした訃報にますます頻繁に接することになるだろう。だがこの両者の場合は、少し早すぎた。

 

図書館でフロイト技法論集」(岩崎学術出版社ラカンフロイトの技法論/上・下を借りた。フロイト「転移性恋愛について」というエッセイ(小論)が面白い。フロイトの考察は机上の空論ではなく圧倒的に豊富な臨床経験に裏付けられているので説得力がある。彼自身が「転移性恋愛」に悩まされた様子がリアルに伝わってくる。

女性が愛を求めているのに、それを断ったり拒んだりするのは男性にとっては苦しい役回りである。神経症や抵抗があるにせよ、情熱を告白する気品のある女性には、比べるもののない魅力がある。誘惑をかたちづくるのは患者のむきだしの官能的欲望ではない。むしろそういったものは嫌悪感を引き起こし、それを自然な現象とみなそうとするなら、ありったけの寛容が必要になるだろう。おそらくむしろ、女性のより微妙で目的阻止的な願望こそが、甘美な体験のために技法と医師の任務を忘れさせる危険をもたらすのである。

他人の恋愛相談を受けている間に恋愛関係ができてしまうというのも一種の転移性恋愛の論理で説明がつくだろう。自己啓発セミナーも一種の転移を利用しているといえる。精神分析における転移とはさまざまな意味で異なるにせよ、ほとんどの人は心の底をあらいざらい晒した人間に対しては無防備になる。それをうまく利用して邪な欲望を満たそうとする人間も後を絶たない。

 

自己啓発の罠: AIに心を支配されないために』(マーク・クーケルバーク、青土社という本も読んだ。ここにもフロイトラカンが出てくる。もともと自己啓発に批判的な人が読むよりも、訳者があとがきで書いている通り、自己啓発に熱心な人が読むべき内容ではないかと思うが、そういう人は手に取らないだろうなあ、とも思った。利己的な「自我啓発」よりも人々を終わりのない自己啓発に駆り立てる今の強迫神経症的な社会を変えるためのアクティビズムが必要だという著者の主張には半分共感するが半分は懐疑的。

 

土曜日に「百万年書房」のサイトで注文した「人民の敵 外山恒一の半生」(藤原賢吾)がもう届いた。昨今の郵便事情の悪さから、明後日くらいになると思っていたのだが、感動的な早さ。

これから読むのが楽しみで仕方がない。